『ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』ネタばれ

さて、あまりに長い物語でプレイ中に難度も印象が変化してしまったので、今回は時系列に感想を書いていこうと思います。「祭囃し編」としてよりも「ひぐらしのなく頃に 完結編」としての性格が強い本作、見方ひとつで大きく印象の変わるシーンも沢山ありました。直前に「鬼隠し編」からの全編を再プレイしておいたおかげで、お話をより深く理解して楽しむことができたと思います。八月の初旬の休暇を返上してひぐらしにつぎ込んだ甲斐がありました。

まず第一部、最初に語られるのは鷹野さんのバックグラウンド。「皆殺し編」では完全な「外敵」だった鷹野さんですけれど、その生い立ちが描写されることで彼女もまた「ひぐらしのなく頃に」の世界の中に取り込まれます。「赦し難い大悪人」である彼女を、たとえどんな過去があったにせよ感情移入できるキャラクターとして描き直すことができるのか? という大きな懸念がプレイ前からありましたけど、これには満足いく結果が得られました。昭和58年の日本で二千人の大虐殺を実行した人間の心理を多くのプレイヤーに納得できる形で描ききったことは、なかなかに凄いことだと思います。

寄生虫が思想を作る」という言い方は凄くトンデモっぽいですが「寄生虫の影響が結果的に人間の心理に影響を与えることもある」くらいなら特に違和感もなく納得できるので、そのように解釈しました。こういった記述の科学的妥当性を測る知識が私にはありませんけど、ハッタリとしてはよくできていたと思います。まあこの辺の感じ方は、各プレイヤーの持つ専門知識によって大きく左右されてしまうのでしょう。同じようなことは、「東京」まわりの政治的記述にも言えるでしょう。ただ、さんざん右翼的偏向を批判的に描いておいて、最後に左にも爆弾を投げつけるという演出にはスカッとしました。右だ左だと騒いでいる人への皮肉でしょうけど、なかなか心憎いです。

で、色々あって「you」アレンジをBGMに鷹野さんが遂に覚醒。泣。崇高な人間の意志に対する、この上ない賛歌です。自分自身の強さだけでなく「社会との繋がりを否定しない」というのは「ひぐらしのなく頃に」全体を通したひとつのテーマに関わる問題なので、彼女の口からそれが語られたのは感慨深かったです。ただ、彼女の言う「社会との繋がり」は一種の処世術的な面があって、部活メンバーサイドの「仲間を信じる」までには至っていません。テーマ的には、最も心の近しい相手だった富竹さんにすら信頼を置くことのできなかったことが、その後の彼女の没落に繋がるのでしょう。

そして、興奮が覚めぬ内に間髪いれず羽入さんの登場。社前での宣戦布告。変な脳内物質がたくさん分泌されました。「人間の意志VS定められた運命」という構図が覆り、「人間の意志VS人間の意志」という構図が叩きつけられます。鷹野さんは強靭な意志を持っていますし、対する羽生さんもまた部活メンバーがこれまでの七編で培ってきた意志を背負っています。かつて羽入さんが「傍観者≒プレイヤー≒神」だった内は、鷹野さんの意志に打ち勝つことができませんでした。羽入さんが傍観者であることをやめ、人間として五十二枚目のカードとなることで初めてこの宣戦布告に辿り着いたのです。

私はこのシーンを「人間賛歌」として捉えました。ただ、最終的にこの構図は少しブレます。鷹野さんはその意志力にもかかわらずどんどん落ち込んでいきますし、羽入さんは人間であると同時に神としての力も捨てていません。そして後半に立ち込める楽勝ムードもあり、「宣戦布告」が叩きつけられたときの燃え上がるようなテンションが最後まで貫かれることはありませんでした。これはちょっと残念だなあと思いますけれど、「ひぐらしのなく頃に」全体のテーマが「信じること」であり、「祭囃し編」のテーマが「敗者を生まないこと」である以上、テーマとしてその下に置かれている「人間賛歌」が優先されなかったのは仕方ないことかもしれません。(それでも、それぞれのテーマが競合しないよう上手くやる方法はあったでしょうけれど)

そして「カケラ紡ぎ」へ。いきなりメタ梨花ちゃんが解説はじめた時はもう何事かと思いましたけれど、やってることはそれほど特別ではありません。ミもフタもない言い方をしてしまえば、五十個にも及ぶ長く大量のTIPSをできるだけストレスなく読ませるためのハッタリです。謎の真相が書かれたTIPSを無造作に五十個並べて「ちょっと多いけど全部読んでね」では気力がもちませんし無粋ですけど、「カケラ紡ぎ」という演出を施すことによってプレイヤーのモチベーションは段違いに励起されます。そして何より、こういった演出自体がひぐらしの世界に実にマッチしています。本当に、このシーンは演出勝ちだなあと思いました。ついでを言えば、カケラの数が最終的にトランプと同じ五十二個となるのも実に心憎い演出です。作中のジジ抜きの喩えの通り、欠けたカケラを足すことでようやく世界は円満な形になるのです。

で、ようやく「祭囃し編」が開始。脱力。激脱力。ありえない。羽入さんが転校してくるということ自体は予想の範囲内だったと思うんですよ。でも、なんていうかその、角! 角! あと変なポーズやめて! どうして普通に手を下ろして直立な立ち絵も用意しなかったんですか? ときどきそのポーズを取るなら別にいいんですけれど、常にずっとそれっていうのは明らかにおかしいでしょう! どうして竜騎士さんはこういう肝心なところでこういうことを! 竜騎士さんのアホー。アホー。

まあ、角に関してはいわゆる「鬼子」のような、できものに近い扱いなんでしょう。あの絵だととてもそうは見えませんけど、とりあえずそういうことで脳内補完。それにしても、実体化羽生さん関連ではアラというか描写不足が目立ちますね。戸籍学籍はどうなってるんだ、普段はどこに住んでることになってるんだ、誰にどう説明したんだ、みたいな。まあ必ずしも説明が必要なことじゃないのかもしれませんけど、これまでそういった社会的設定がしっかりしていた作品なだけにこの落差には違和感を覚えます。ずっと前から二人でいたくせに、皆殺し編の記憶を継承してないことに気付くのがどうしてそのタイミングなの? とか。この手の矛盾を感じることはシリーズ内でもほとんどなかったんですけれど、「祭囃し編」に入って急に増えた印象です。

で、赤坂さんが登場。雛見沢に来るまでの経緯があまりにも偶然に頼りすぎていて、なんだかなーという印象。雛見沢関係の資料を偶然見つけるなんて不自然なことをせず、何も説明せずに颯爽と現れた方が逆に納得いったと思います。似たような偶然は他にも何度か起こって、これを「システム化されたご都合主義」と説明することもできるんですけど、説明できるから納得できるというわけではないのです。この辺、もう少し上手くやってほしかったなあと。

そしてまた都合よく、神社の境内で梨花ちゃん、入江先生、富竹さん、大石さん、赤坂さんがそろい踏み。もう本当に、大石さんが格好良すぎます。自分の倍を生きた年齢の人物であるにもかかわらず、ここまで心に来る心理描写をやってのける竜騎士07さんを純粋に凄いと思います。やっぱり少女心理とおじさん心理とには親和性が! (またそれ) 赤坂さんに散らかった部屋を見られるのを嫌がる梨花ちゃんの可愛さは異常ですね。これはちょっとありえない。

打ち明けるかどうか迷っている梨花ちゃんに対して、羽生さんが「信じなかったら仲間じゃない」といった旨の発言。この言い回しはちょっと引っかかりました。言葉の綾であって悪い意味ではないんでしょうけれど、「信じることの肯定」「信じないことの糾弾」は一歩間違えると独善的な主張にもなってしまいます。これまでのループの中でお互いに疑い合って疑い合ってその果てに今があるからこそ「信じる」という言葉に重みがあるわけですけれど、それは決して「信じ込めばそれでいい」という無批判な意味ではありません。それでは「罪滅し編」で鷹野さんの珍説を信じろと強要したレナさんの二の舞です。

作戦会議。脇がやや甘いような気がするものの、着々と計画を立てていく静かな時間が途方もなく面白いです。四十八時間発狂説の矛盾には「綿流し編」と「目明し編」の結末から気付いてましたけど、それをこういった形で能動的に用いる展開になるとは思いもよりませんでした。魅音さんが園崎家に一切援助を求めなかったことはかなり違和感。もちろん作劇場の都合なんでしょうけれど、違和感なく物語を続けていくためにはプレイヤーに納得できる形での説明が必要だった点でしょう。身近な人を頼りとせず自分たちだけで計画を進めるのは「信じる」というテーマにも悖るので、ここはどうにかしてほしかったところです。「あまり多くの人に情報が伝わると、集団発狂とは関係なく機密保持のために緊急マニュアルが実行されてしまうのですよ」とか。

で、綿流し祭当日。機関車トミー。と・み・た・け! と・み・た・け! これは本当にやってくれました。素晴らしすぎます。表情も勇ましすぎますよ。これだけでもお腹いっぱい。でもこんなのはまだ余興の余興、続いて入江先生の逃走劇。がんばれイリー。負けるなイリー。あ、負けた。詩音さんと葛西さんの現れるタイミングがまた出来すぎてますけど、「尾けられてんじゃん!」(・3・)「尾けられてないもーん!」(・3・)でどうでもよくなりました。仲よし姉妹っていいものですね。

梯子で一人一人順番に逃げていくシーン。詩音さんと葛西さんが残って銃撃を浴びるシーンは、頭でハッピーエンドと知っていながらも物凄い悲壮感でした。もしこれで銃撃を浴びたのが魅音さんなら生存を疑わなかったんですけれど、部活メンバーから少しだけ距離のある微妙な立ち位置の詩音さんなだけに、「もしかしたらハッピーエンドでも彼女は死んでしまうんじゃ」という一抹の不安を抑えきることができませんでした。危ない危ない。

で、赤坂さん登場。せっかく半泣きになってたのにあのファイティングポーズのせいで思わず笑っちゃいましたよ! 強い強い赤坂さんが強い。これはまさに温泉返上。巨大文字の演出は「間に合った」「給料いくらだ」くらいなら問題ないんですけれど、あそこまで多用すると違和感があったなあと。竜騎士07さんにはこの辺の機微を早く読めるようになってもらいたいです。「暇潰し編」や五十一個目のカケラ屑、または「鬼曝し編」といった「間に合わなかった」描写の積み重ねがあった上での今回のこのシーンですから、彼の鬼のような強さにも違和感はありませんでした。この辺は、個々人の思い入れで印象が大きく変わってくるシーンでしょう。

葛西さんの大立ち回りやら入江先生のメイド・イン・ヘヴンやらを経て、舞台は部活メンバーVS山狗の裏山へ。部活メンバーが山狗を圧倒するようなことがあったら興冷めだなあと思っていましたけれど、実際そのシーンに至るとすんなり受け入れられてしまったのが不思議です。まあこの圧勝はどう考えてもおかしいんですけれど、少なくとも読んでいる間はその辺のパワーバランスを「どうでもよいもの」として気にしないでいられるだけの演出があったと思います。竜騎士さんのアジテーションが本領を発揮したシーンでしょう。最後は魅音さんが思いっきり空気を投げての決着。ここまで来るともうわざとやってるとしか思えませんけれど、禊にいついてなどテーマ的に重要なことも言ってます。小此木さんからすれば自分を負かした敵将に稽古をつけてやった形になるんでしょうけど、その心境を思うとなかなかに複雑です。

そして羽入さんと鷹野さんの睨み合い。この辺のことはこっちに詳しく書いてます。まさか「鬼隠し編」の時点ではそこまで考えてなかったと思いますけど、ここで「最初の部活」であるジジ抜きを持ってきてモチーフを回帰させたのは実に心憎い演出です。結局鷹野さんが生贄となる結末すら回避され、物語はフィナーレへ。過去の作品のように激情で締められることはなく、幸せの予感で満たされながらの穏やかな穏やかなラストでした。今回は単なる「祭囃し編」の終わりではなく「ひぐらしのなく頃に」全体の終わりを描く必要があったわけですから、この穏やかな終幕はそれに相応しいものだったと思います。ここで梨花ちゃんが誰かと抱き合って号泣するようなシーンでも挿入してラストの感動を盛り上げることも出来たんでしょうけれど、そういった「一時の劇的な感動」を演出してしまうと、作品全体の終わりという緩やかな余韻を掻き消してしまう危険もあったはずです。(まあ鷹野さんが捕まってからお祭に行く間に、お話のバランス的にはもうひと盛り上がりあっても良かったのではという気もしますけど)

後日談。結局、「主人公」である圭一さんレナさんにはほとんど活躍が回ってきませんでしたね。裏山の決戦で「圭一&レナVS山狗」なシーンを「魅音VS小此木」戦と同じくらいの濃度で一回でも描いておけば、こういう印象は避けられたんでしょうけれど。「仲間との結束」というテーマのためにあえて「主人公」を目立たなくしたのか、単純に時間がなくてうっかりしたのか。まあ直前まで「罪滅し編」や「皆殺し編」をプレイしていた身としては違和感がないんですけれど、最後に「皆殺し編」をプレイしてから八ヶ月待った人にとっては物足りなさが残ってしまったことだろうと思います。

この後日談で重要なのは、入江先生の論文が評価され、その参考文献として鷹野さんと一二三先生の論文が引用されている点。これは後々、二人の研究が再評価され「人の記憶に残る」という願いが達成される可能性を示唆しています。もちろんこういったアクロバティックな解釈で神となったとも言えますけれど、いずれにせよ鷹野さんも一二三先生も、いまや「敗者」ではありえません。「敗者を生み出さない結末」は、この論文の記述があってはじめて完全な形で達成されたと言えるでしょう。

全体の印象としては、どの編よりもテーマ性とエンターテイメント性が強く、その分だけリアリティが犠牲になってしまった印象です。この点についてはひぐらし考察の最大手PARADOXさんで以下のように述べられています。

物語の構造上、大切なのは対決に至るまでの協力体制です。一同がそれをどうやって築き上げたか。皆殺し編では部活メンバーが団結したけど敗北。祭囃し編では大石、富竹、入江、赤坂といった強力な面子に働きかけて協力を得た。この時点ですでに勝利が約束されている。だから一連の戦いは本質ではなくて表層に過ぎない。演出のようなものだから、多少の不自然さは流してしまえる。この辺は「どこまでの不自然さを許せるか」っていう個人的なキャパシティの問題。苦手な人は徹底的に苦手だと思う。魅音と小此木の対決なんて最たるものでしょうね。小此木が本気じゃなかった部分を差っ引いても、普通は勝てないでしょう(笑)?

この「表層」という表現にはものすごく納得しました。戦いの中での具体的な一挙一動の結果としてあの結末があるのではなく、あの結果を導くための過程があの戦いだったのだと逆の順番で考えると、これまでの違和感は氷解します。けれど、表層の演出だからこそプレイヤーに違和感を与えるような描写は避けてもらいたかった、という思いはやっぱり残りました。物語にテーマが込められるのは、単に理屈で言っても相手の心に伝わらないからです。だからこそ、作中でいかに読者の共感が得られるように演出するかが大事になってくるわけで、「テーマを示すために演出が強引になりました、強引すぎて読者の共感が得られなかったようだけど、テーマに従う必要があったのだから仕方ない」では話が全く逆なわけです。

似たような話で、これまでずっと重視してきたリアリティを土壇場で大投げにしてしまったのも残念でした。「皆殺し編」での「東京」の登場がひどく唐突だったのでトンデモっぽく感じられましたけど、そこは竜騎士07さんもフォローが必要だと意識していたようです。「祭囃し編」前半での地に足のついた解説のおかげで、リアリティは随分と回復しました。「緊急マニュアル」や「終末作戦」はともかく、「東京」自体は有力者による圧力団体の派閥のひとつということで、フタを開けてみればそれほど無茶苦茶すぎる設定でもありませんでした。同様に、「暇潰し編」の警察組織*1や「罪滅し編」の篭城事件、「皆殺し編」の法律関係などでも現実と地続きであるという描写が重ねられています。はじめからリアリティを放棄していた物語ならともかくとして、せっかくこうやって「現実との地続き感」をずっと培ってきたんですから、この方針は最後まで貫いてほしかったなと思います。

全体として、竜騎士07さんのいいところと悪いところが双方十二分に発揮された完結編だったと思います。まったく余計なものまで発揮してくれちゃったものだと思いますけれど、まあ予想の範囲でもありました。戦いの経緯が「表層」である以上、堅実にリアリティを保った上で山狗に辛勝するという選択も竜騎士07さんには可能だったはずです。そこをあえて今回のような形にしたのは、同人作家らしく自分のやりたいことを曲げなかったのか、単に作者とプレイヤーの意識の乖離が行くところまで行ってしまったのか。前者なら何も文句は言えませんけど、後者だったのだとしたら物凄く勿体ないなあと思います。なんかコンシュマー版では完結編が新しく作り直されるらしいので、そういった点も改善されたらいいなあと期待しておきます。あと冬のファンディスク。活躍がなかった分、圭一さんとレナさんが大騒ぎしてくれるでしょう。これからまた四ヶ月、懲りずに待たせてもらうことにします。

*1:まあ間違いもあったそうですけど。