『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』東浩紀 流水3号

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
基本ということで。昔の装丁のものを買いたかったんですけれど、なかなか見つからないので結局これに。
一冊の読み物としては、普通に面白かったです。納得三割、違和感三割。残りの四割は、どうも自分とは関係のない他人事が語られているように思えて実感が湧きませんでした。
違和感を感じたのは、小さい物語についての段。たしかに物語を単なる順列組み合わせとして捉えることは可能でしょうし、そういう物語を求めている人もいると思います。けれどその視点は、他の視点を考慮に入れる必要がないほど支配的なのでしょうか? この辺りの問題を小さい物語という一言で切ってしまうのは、あまりにも一面的すぎるように感じます。key作品について触れている箇所なんかは、東さんが認めたくないものに対して変な意地を張っているように見えてしまいました。*1
データベースの件についてはおおむね納得。オリジナルと二次創作の差の消失という発想は興味深かったですし、ただ純粋に設定のみを求める嗜好というのも存在すると思います。そういえば小さい頃*2、歴代の戦隊物ヒーローを一冊にまとめた本を読んだことがあるんですけれど、実際にはTVで観たこともない当時から十年以上も前の戦隊チームの紹介を、わくわくしながら眺めていた覚えがあります。
萌え要素の段はどうも遠い世界の話を聞いているようで実感の湧かないものでした。いまだに分からないんですけれど、その着こなしやデザインといった身体性*3抜きに、「ネコミミ」とか「メイド服」それ自体に魅力を感じる人って、はたして本当に存在するのでしょうか? いるとして、そういう人が全体の中で一体どのくらいの割合なのか、正直検討がつきません。ただ彼らがこういった嗜好を持つ原因について、"そういう物を見たとき興奮するように訓練されているから"と説明した理屈には納得できました。裸族が裸の異性に何も感じず、服を来た異性に興奮するのと同じ道理なのかもしれません。
最後の方、『YU-NO』という作品についてのネタばれがあまりにも致命的だった気がします。これだけでも東浩紀さんが獣人毒者であることは自明なので、私は彼のことを流水3号と呼ぶことにしました。やーい流水3号。ところで書いていて思ったんですけれど、「読者」「プレイヤー」「ユーザー」「視聴者」などを一言で表せる言葉ってあるのでしょうか? 「受け手」や「客」だと、示す対象がちょっと広すぎる気がします。

*1:ファウストvol.4』で滝本さんの作品についてトンチンカンな解釈をしてしまって、「滝本さんはkeyとか好きだもんね」と口を滑らしたり。

*2:十万年くらい前。

*3:ところで身体的ってなんですか。一応ここでは記号に対する条件反射の反対の概念として使ってます。多分間違ってます。