『ネコソギラジカル(下) -青色サヴァンと戯言遣い-』西尾維新

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)
戯言終了。
ばら撒かれた伏線という伏線は一見呆れるほど未回収なのに、投げっぱなしという感じは全くありませんでした。たしかに《玖渚機関》や《殺し名》をはじめとする無秩序で過剰設定的な世界観についてはまったく説明がなされていなくて、依然いくらでもお話を作ることのできる形で開かれています。けれど、語り部さん個人をを中心とした《戯言シリーズ》としての物語は、あらゆる伏線が絶妙なタイミングで回収されていき、完璧と言っていいような形で見事に完結しました。この"世界観に関する伏線"と"物語に関する伏線"は別のものとして考えておかないと評価が変わってしまうと思います。*1
この結末自体には、特に目新しさはないかもしれません。でも、『クビシメロマンチスト』のあの思想を含むこのシリーズが、連続した物語として『ヒトクイマジカル』を経過して遂に本書の結末に至ったというその事実、これは本当に凄いことです。表面上は冒険活劇的な設定で作品中をこれでもかと彩りながらも、実はどこまでも語り部さん一人を描き切るための小説だったのではないかと思います。
で、毎回同じことを言いますけれど、"記号・属性・萌え要素のみによって作られたキャラクター"という主張にはどうも納得できません。たしかに西尾さんのキャラクターはどれも記号で装飾されまくってます。でもその装飾だけに目を奪われて、描写の積み重ねでから生まれる身体的な魅力に気付かれていないのではないかという気がすごくすごくします。たとえばもし哀川潤さんから《人類最強》という記号を取っ払ったら、哀川さんはその格好良さを失って無味乾燥で凡庸な登場人物になってしまうのでしょうか?

*1:ところで上遠野浩平さんの作品郡が典型的ですけど、"世界観の設定は投げっぱなしでも、物語が綺麗に完結すればよい"という発想が受け入れられるようになったのはいつからなのでしょう? むしろ、"世界観の収束=物語の収束"という考えかたの方が最近のものという気もしますけど。