「酷評は何も生み出さない」という主張をちょっと補強してみますよ

酷評は何も生み出さない。 - ジュブナイルポルノ作家わかつきひかるのホームページ
この記事をコメント欄まで読んでみると、「酷評は絶対悪」ではなく「酷評はプラスよりマイナスの方が大きい」という主張であることが分かります。また、「指摘された欠点は本当に欠点なのか?」というところに大きな問題があるともいえるでしょう。これについて、ちょっと筋道を立てて考えてみます。といっても以下は具体的な枝葉の要素をばっさり切り捨てた乱暴な抽象論なので、現実の問題に必ず当てはまるわけじゃありませんけど。
たとえば、ある"読者A"が何らかの作品のとある"要素B"を誉めるのはどんな状況が考えられるでしょうか? 少なくとも、(1)「要素Bが優れていること」と(2)「要素Bが読者Aの感性・評価基準に合致すること」の二つの条件が必要になります。作品が誉められるためには、両方の条件が同時に満たされねばなりません。
では、逆に読者Aが要素Bを酷評する場合はどうでしょう。この場合(1)「要素Bが優れていること」と(2)「要素Bが読者Aの感性・評価基準に合致すること」のいずれか片方が満たされなければ、この作品は酷評されてしまうことになるのです。
前者は「(1)と(2)両方の条件が満たされねばならない」、後者は「(1)か(2)どちらか片方の条件が満たされなければよい」。けれど客観的な視点から考えると、作品の優劣は(1)の条件のみに依存しなければならないはずです。つまりこのモデルで考えた場合、「誉めること」よりも「酷評すること」の方が条件が緩く、精度が低いと言えるのです。ある作品を誉めるにはその作品が優れた要素を備えていることは不可欠です。けれど、優れた要素を持つ作品であっても必ずしも誉められるとは限らないのですー、と、まあ結局個人の好き嫌いと作品自体の優劣は一致しないというごく当たり前のことしか言ってないわけですけど。
もちろん実際は目指す作風の傾向とかもありますし、ある程度(2)の条件が(1)に含まれることもあるかもしれません。悪い読者は(1)の条件を一切備えない作品を考えなしに誉めてしまうものなのだ、みたいな反論も可能でしょう。「客観的な視点」ってそんなものあるのかとか、まあつつけばいくらでも粗が出てきます*1し、そもそも最初の条件設定からしてこの前提が相応しいものかどうか微妙です。けれど誉めることより酷評することの方が難しいという指摘は、やっぱりかなり一般に言えることだと思います。
「この本の面白さが自分には分からなかったから、この本を面白いと言ってるやつは馬鹿だと思う」と臆面もなく主張できる人が、世の中には本当に存在します。もちろんこれは極端な例ですけれど、自分では気付かないまま上と同じ理屈で作品を評価してしまうことが、私達には往々にありえると思います。深いことを考えずに適当に酷評を並べるだけならば、たしかにわかつきさんの言うとおり「プラスよりマイナスが多い」という状態になってしまうのでしょう。
つまりこれは精度の問題です。「こういう嗜好を持つ人にとってこの要素は強みになる/弱みになる」というところまで境界条件を明確にして批評することができているのなら(そしてそれが妥当な指摘であるのなら)、その指摘は賞賛であっても酷評であってもきっと有益な意見になることでしょう。もちろん、そういった判断はとても難しいことです。わかつきさんの例のにあるように、変に創作へのこだわりや思想を持ってしまった人にとってそれは尚更のことなのかもしれません。なにせ、文壇で大いに名のある大作家でさえ自信満々でこんなことを言ってしまうくらいなんですから。

*1:まあ、抽象論なんだから具体的な問題を指摘すれば粗が出るのは当然なんですけど。