『永遠のフローズンチョコレート』の感想を書こうとしたら脱線してひぐらし語りになりました

永遠のフローズンチョコレート (ファミ通文庫)
うわーお腹いっぱい。小説の共感作用は「同じ立場にある人をどれだけ強く共感させられるか」と「立場の異なるどれだけ多くの人をお話に入り込ませて共感させられるか」という二つの観点で語ることができると思いますけれど、本作は大きく前者に寄った作品だと思います。徹底して他人に理解を求めない作り。何年か前ならすごく共感できたと思うんですけれど、『ネコソギラジカル』や『ひぐらしのなく頃に』を読んだ今となっては少し距離を置いて眺めてしまいます。
谷川流さんの『絶望系』と同様、アレ気な要素を詰め込みまくった*1本作ですけれど、そのことに作者さんがどこまで自覚的だったのかは分かりません。もともと売り物にするつもりはなかったとのことなので、ある程度の恣意はあっただろうとは思いますけど。あからさまな引用それ自体よりも、その使い方のヒネリのなさや必然性のなさが引っかかりましたけど、完全な趣味として書かれたものなのだと聞いて納得。納得できたところで、作品としてどうかという問題とは別物ですけど。とりあえず例によって、この作品の登場人物はみんな哀川潤さんの前で正座して説教くらいやがれです。
桜庭一樹さんの某二作品に似ているという感想をいくつか見かけて、ちょっと意外に思いました。まあ確かに、細かい部分に差はあれど似た構図を持ってはいます。桜庭さんの作品が、片方は「現実の前になす術もなく敗北してしまった」作品で、もう片方が「現実に抗うためにその世界自体を破壊して、結局自分の居場所を失ってしまった」作品であるとすれば、本作は「現実を徹底的に回避するためにその世界自体を破壊して、結局自分の居場所を失ってしまった」作品とも言えるでしょう。
ところで「現実に抗うためにその世界自体を破壊して、結局自分の居場所を失ってしまった」作品といえば、同じ構図を持つものとして『ひぐらしのなく頃に』の『祟殺し編』を思い出します。ただしひぐらしの場合この構図はお話の通過点にしか過ぎず、解決編では同じテーマがもう一度語られることになります。そこで提示されたのは「世界(社会)の中の自分の役割を果たす形で現実に抗い、世界を壊すことなく現実に打ち克つ」という最善手を目指す構図でした。ひぐらしはいわゆる「セカイ系」の対極、または「セカイ系」の突破を志向する作品だと勝手に考えてるんですけれど、それは例えばこういう点に現れてると思います。

*1:ただし詰め込むものが虚無なので、詰めれば詰めるほどカラッポになります。