『十角館の殺人』

十角館の殺人 (講談社文庫)
綾辻さん。世に言う本格推理とやらを読んでみました。思っていたほどガリガリの理詰めというわけでもなくて、解答の一意性に気を遣っているという印象もありませんでした。どちらかと言うと、推理小説というジャンルのお約束的不文律を強く意識した作品だったと思います。現実的で即物的な理屈よりも、もっと観念的なものが重視されていた印象。まあどっちにしろ、私が毎度毎度アホの子のように騙されることに変わりはないわけですけど!

それにしても、この「本格」というジャンルは随分と業の深いものだなあと思えてきました。現実の世界における推理というのは、推理→検証→推理→検証と間に検証を挟む形で行われます。その時点で持っている情報から「可能性の高そうな」推論にあたりをつけて、それが本当に正しいのかどうかを様々な手段で検証するという選択があるわけです。検証の結果その推論がますます「可能性が高そう」だと分かると、その一点に集中してより詳細に情報を集めることもできます。そうやって、「可能性の高そうな推論を積み重ねる」ことで真相に近づくことができるわけです。

ところが、推理小説では読者がこの検証を行うことが出来ません。読者がどういった推論を立てようとも、作中で提示される情報は限定されています。気になったことを実地で確かめてみるとか、睨んだ点を集中的に掘り下げて情報を得るとかいった、現実の推理なら当然のように行っていることが推理小説の読者には許されていないのです。こういった特殊な束縛があるからこそ、逆に「作中の情報から真相は看過可能でなければならない」とか「嘘の記述があってはならない」とかいった不文律が生まれてきたのでしょう。そんな条件下では「可能性の高そうな推論を積み重ねる」というアナログな推理方法は実質かなり困難です。だからこそ小説内の探偵たちが行う推理は、0か1のどちらかにはっきり分かれるような離散的でパズル的な形態に移行していったのだと思います。

あー、あと解説の鮎川哲也さんがめちゃくちゃ格好良かったです。

勿論、輩出した新人作家の中には、本格物をいかに書くべきかというノーハウを充分にマスターしていない者もいることだろう。そうした人の作品を読んだとき、代金を返せなどとケチなことはいわずに、具体的に欠点を指摘して、彼らの生長をあたたかく見守ることはできないものか。それとも、批評家気取りの若者たちは、本格ミステリーの隆盛を希う気持ちなんぞ持ち合わせていないのだろうか。そうした連中は沈黙してくれ。耳障りだ。

すごい漢気。それにしても、こういった批評まわりの事情って今も昔もあんまり変わってないみたいですね。