『シンフォニックレイン』は物語よりも情景の表現そのものを重視してるんだなあと

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン愛蔵版
この作品、シナリオ運びやテーマの扱い自体はあまり上手ではない気もします。中盤までがどうにも退屈なことから分かる通りストーリーテリングはあんまりですし、物語の締め方もふわふわしていて捉えどころがありません。そのおかげで「結局どうなの?」とプレイヤーに興味を湧かせることに成功していますけど、「実は深く考えてなさそうだなあ」と思えた部分もあります。

前回少し触れたように、総じて「物語」にはあまり力が入れられていないという印象でした。ではこの作品は何も表現していないのかというと、決してそういうわけではありません。この作品のプレイ後に訪れる余韻はそれはそれは凄まじいもので、「プレイヤーの心を鷲づかみにして揺さぶろうとしたら思わず握り潰してしまってえらいことに!」くらいの衝撃が間違いなく存在します。

思うにこの作品、実は「物語」ではなく「情景」そのものを描きたかったんじゃないでしょうか。「物語」が「何か問題があって→それを乗り越える/乗り越えるのに失敗する」といった「流れ」を指すのだとすれば、「情景」は「人々の感じている思い」そのもので、言ってみれば「静止画」です。本作の登場人物たちの抱いていた深い悲しみや苛烈な意志、それらが「どう解決されるか」という過程ではなく、ただひたすら「思いそのもの」を表現しようとしていたのが本作だったのではーという気がするのです。

もちろんそれは程度問題で、例えば作品の本軸となる某ルートには「解決」と呼べる結末とそれに至るテーマ*1が与えられています。ただ全体として、「物語」よりも「情景」の描写に重点が置かれていたという印象は、やっぱり強く残りました。というか、「情景」を描くために、「物語」すらが利用されていると言うべきでしょうか。「物語」によって何らかの方向性を主張するわけではなく、ただ「世界はこの様にあるのです」と事実をあるがままに示しているというか。だからこそ、「本筋」である某ルートの「情景」にあたるあの部分は、あそこまで綿密に作りこまれているのでしょう。

こういった、ベクトルを持たずにただ「情景」を描く作品というのも、それはそれであってもいいんじゃないかなと思います。実際、そういう部分が評価されている作品は決して少ないわけでもないと思います。ある意味『よつばと!』なんかはその典型でしょう。ただ、「物語」という形式に乗っている以上、作品を終わらせるためにはどうしてもラストシーンが必要になります。そして「物語」という形式に慣れた私たちは、そこにどうしても「結論」を見出してそうとしてしまいます。

この作品には、進め方によってひどい結末を迎えてしまうルートも存在します。でもそれは、決して「初めから彼女らには不幸になる未来しかなかったのだ」というメッセージではない*2と思うのです。勿論だからと言って、どこかのひぐらしみたいに「悲劇を避けるにはどうすればよかったか」というメッセージが託されているとも思えません。

その情景をどう受け取るか、これはもう完全に受け手の側に委ねられています。単純にその結末を嘆き悲しんでもいいですし、その先のもっと突っ込んだ解釈をしてみるのもありでしょう。作品の中で「結論」が与えてもらえなかったために行き場を失った感情は、自分自身で整理してあげるなければなりません。そうやって作品を自分の中にどう位置付けるかを決めること、それこそが「作品を受け入れる」ということなのだと思います。はいオチなし。

*1:これも、それまで描いてきた「情景」の緻密さと比べると少し不完全に思えるところも見当たりますけど

*2:じゃあどうしてわざわざあんな結末を見せたのかというと、特にメッセージ性がなくても何となくああいうのを他人に見せたがる人というのがいるんです。変態ですね。