「調教」される「批評家」たち

(美少女ゲーム年代記 - 魔王14歳の抱き枕に書いたのと同じ内容です)


批評者の言葉が創作者から見て的外れになりがちなのは、ひとつには、その仮説を実証する機会がほとんどないからという理由が挙げられると思います。実際の人間を相手にしている創作という活動は"例外が多い"ということにかけてほとんどスポーツみたいなものです。よりよい創作を行うためには、実験によって常に理論を修正し、それが追いつかない複雑な部分は身体感覚でカバーするしかないわけです。

自分でものを作るという作業に携わらない以上、批評者は「作品を作る際の自分の感覚」と「作品を鑑賞した者の反応」を照らし合わせるということができません。批評者には、後者の"外から観察できる反応"しか知ることができないのです。言葉選びのセンスとか、テーマの有効な伝え方とか、もっとも鑑賞者の心を揺さぶる演出挿入のタイミングとか、そういったことを創作者はいちいち教えてくれませんしね。

仮説を実証して修正する機会が少ないと、仮説は仮説のままでどんどん膨らんでいくことになります。仮説を前提とした仮説の上にまた別の仮設を積み重ね、遂には仮説から成り立った巨大な体系が出来上がってしまうことすら考えられます。それはあるいは、批評者以外の人々が見ている地点とはまったく別の方向に伸びていってるかもしれません。

そういった体系は、内部ではちゃんと筋が通っているのです。ただ、体系の外部にも適応できるとは限りません。たとえば、中学生が習う物理では、物体は一律9.8m/s^2で落下していき、地面にぶつからない限り無限に加速し続けます。でも現実には、自由落下する物体は空気抵抗で一定以上の速度になりません。この「空気抵抗」という概念は、体系の内側だけでものを考えている限り決して気付くことができないのです。

ところが、そんな巨大な体系が出来る頃になると、批評者自身にも変化が現れます。つまり、その体系の中に身を浸しているうちに、「体系の理論に合致する」ことがそのまま「感動」に直結するようになるのです。「感動」を得るにはどうすればよいかを探るために「正しい理論」を追求していたのに、いつのまにか「自分の理論」に当てはまるものに「感動」してしまうカラダになっていたという価値観の逆転です。美少女ゲームの専門用語ではこういった現象を調教と呼ぶそうですけど本当ですか。わかりません><

ともかくそういうわけで、私は批評という行為に少し危険を感じることがあります。もちろん、それがどんな体系であっても、それで感動できたのなら、その人にとってその感動は本物です。ニセモノの感動なんてありはしません。作者の意図から外れた読み方を誤読と言うのなら、作者の意図を超えた批評者の分析なんてそもそも積極的に誤読しようとする意思に他ならないんですから。「お前の感じている感動は間違った感動だ、正しい感動の仕方は俺が知っている」みたいな理屈はないのです。

ただ、その体系が唯一ではない、その感動が他者一般に通じるものとは限らない、ということを自覚しておく必要はあるでしょう。そうでないと、「俺の理屈に合わないからこの作品はゴミ、こんなのに感動してるやつは馬鹿」とか本気で言い出す人が現れてしまうわけです。実際、プロであってもこの種の手合いは少なからずいます。(もちろん、実際に創作に携わっている人でも変にドグマスティックな理論に陥ってしまうことはあります。「中国人を出してはならない」とか)

たとえば私の場合、東浩紀さんとか誰とかの文章を読んでも「この人はこういうことを考えて本を読んでいるのかー、でも私の読み方には関係ないな」と思ってしまうことが多いです。WEBで見かける批評的な記事なんかでも、何書いてるか分からないのでほとんど読めません。というのは私の方こそが「一般的でない体系」に取り込まれてるだけなのかもしれないんですけれど、とにかく「体系が違うのかも」と感じることは頻繁にあります。