人が作品に接する態度二類

(美少女ゲーム年代記 - 魔王14歳の抱き枕に書いたのと同じ内容です)


こことかあそことか筒井康隆さんの『文学部唯野教授』とかを読みながら色々考えて、いままでどうしても拭えなかった違和感がひとつ解消された気がします。おそらくはものを考える出発点の違いみたいなものがあって、そこのところの前提の違いが人と話が食い違ってしまうひとつの原因だったのかなーっと。以下二類。

感想から出発する場合

私とか、私がアンテナに登録してるようなサイトは、大体この視点からレビューを書いてると思います。私の感想の書き方、という意味でもメモ。

読者が作品を読むと、「面白かった!」とか「つまんなかった……」という感想が湧いてきます。でも面白かったつまんなかったの一言感想で終わってしまうのは勿体ないですし、cogniさん風に言うと思考停止なので、「それはどのような面白さなのか」「どうしてつまらなかったのか」みたいなことをもっと突っ込んで考えてみよう、というのがこのパターン。

別々の人が一様に「面白い」と言っていても、その面白さには質的な違いがあるかもしれません。また、自分の感じる面白さをどうしても表現できなくて、もどかしく思うこともあるでしょう。作品から得た感想を的確に分析し、成文化して表現することができたなら、それは「良質な感想文」と呼ぶことができるでしょう。こういった感想文を読むことは作者にとっても有益です。

「どうしてこんな感想を持ったのか」という視点から分析することもできます。これも感覚から出発している問題なので、ある人が「技巧的だから素晴らしい」と感じたところを、別の人は「技巧的だからあざとい」と感じてしまうこともありえます。両者は「技巧的である」という同じ分析を述べていますけれど、ここで話を終えてしまうのもこの立場からすればまた思考停止です。私や彼らの最終的な興味は、その先の「どんな感想を抱くか」というところにあるからです。(作家ならここからさらに突っ込んで、「読者にこんな感想を抱かせるためにはどんな表現をすればいいのだろう」というところまで考えたり実践したりします)

どちらにしてもまずは感想ありきです。作品は、読者にどのような感想を与えるかという視点から分析されます。不確かな感想を根拠として作品を分析するのは"悪い印象批評"として嫌われるそうですけれど、この場合はそもそも感想自体が分析の対象になっていて、状況が根本的に異なります。

作品から出発する場合

こちらは、作品そのものを分析しようという視点です。作品は読者に感想を与えうるものですが、この場合は必ずしもそれを考慮に入れる必要はありません。読者の感想とは無関係なところで、作品を分類したり解釈したり比較したりしてもぜんぜん構わないのです。こうなると読者自身に固有な価値基準に縛られなくなりますから、どこかからら持ってきたのか分からない突拍子もない評価軸を仮想することだって可能です。

こういった様々な方法での分析が、結果的には「読者の感想」にまで影響を与える場合もあります。こんな解釈ができたのかー、とか、こんな読み方もあったのかー、みたいな感じで、作品の面白さをいっそう引き立てることだってできます。でもそれに限らず、作品の面白さにはぜんぜん関係ないけど分析の発想自体が興味深いぞ、みたいな楽しみ方だってできると思います。何の意味があるか分からないけど俺が好きでやってるんだから別にいいんだよ文句あるか! 的な純正末梢研究的だってありでしょう。*1

このグループで書いてる人なんかは、結構こういった視点も持たれてるように思えます。もちろん、これはあくまで程度問題で、実際は両者ないまぜになった文章が大半でしょうし、そもそも境界だってあいまいでしょう。ただ、作品と感想を切り離して扱うという考え方、私にはこの発想が全くありませんでした。作品は常に読者にどういう感想を与えるかという視点から語られるもので、あらゆる批評はよりよい「感想」を得るために行われていると思っていたのです。

この点、かなりカルチャーショックでした。そりゃ人との話も食い違おうというものです。考えてみれば、先入観以外の何者でもありませんね。まあ車輪の再発見なんでしょうけど、自分的に大発見だったので書いときました。(既になかば私物化しているこの日記)

*1:本文に「ぺ」という平仮名が何回出てきたかを今月の新刊で徹底比較! みたいな。