公共のインフラで主観を表明するのは迷惑

アニメや映画を見て「面白かった」や「つまらなかった」などの主観を記事にする価値ってあるのだろうか?みたいなことを最近は考えています。

不特定多数の人が見る場所で、公共のインフラを使って主観を表明するのってすごく迷惑な行為ではないだろうか、とか

tukinohaさんがどういう思考の流れでそういう結論に至ったのかというところに興味が。

まあ本当に「○○というアニメを見た。面白かった」で終わってる記事なら、情報としての価値は低いです。(この人がそう感じたなら、自分にとっても……といった判断の材料にはなるので、無価値とは言えないでしょうけど。むしろ、こういった他人の主観を作品を選ぶ際の最大の判断材料としている人が世の中には大多数な気がします)

けれど、「この作品のこういうところに自分はこういう印象を持った、それはおそらくこれこれこういう理由によるものなのだろう」といった風にちゃんと筋道を立てて表明された主観の記述は、同じ鑑賞者にとっても送り手である創作者にとっても一定の価値があるものです。

鑑賞者は他人の鑑賞方法を知ることで自分の鑑賞方法を見直したり、さらに広げていくことができます。創作者にいたっては、鑑賞者から特定の主観を引き出すことを目的として創作活動を行っているんですから、鑑賞者の詳細な主観の表明というのは本来喉から手が出るほど欲しいはずです。

(にも関わらず「客の感想は当てにならない」とか言われるのは、筋道の説明もなく「面白かった」「つまらなかった」で終わってしまう精度の低い主観の記述が圧倒的に多いからでしょう。本当に精度の高い的確な主観表明であれば良質のサンプルとして参考にされるはずですし、精度の低い主観も数が集まればそれなりに有益な標本群となります)

こういった主観の表明を迷惑な行為と捉えるのは、どういった理由からでしょうか。たとえば、「主観の表明に価値を感じない人」にとっては、主観の表明なんて情報の価値を低くしてしまうノイズでしかありません。けれど、この論法には問題があります。

"「○○に価値を感じない人」にとっては、○○なんて情報の価値を低めるノイズでしかありません"と、「主観の表明」の部分を別のものに置き換えてもこの文脈は成立してしまうので、これでは「主観の表明」だけが特に迷惑な行為ということにはならないのです。

それを必要としない人にとってそれは必要のないものです。当たり前です。「今なら魔王城の食堂では暗黒ラーメンが2割引の370ツンデレ!」みたいなローカル限定のお得情報は、ほとんどの人にとっては情報の価値を低めるノイズです。だからそういう情報を公共のインフラに流すべきではないーという論法を振りかざすことは多分可能なんでしょうけど、tukinohaさんの意図はそういう話ではない気がします。

他に考えられることとして、他人の主観の表明なんて不確かなものはその不確かさゆえに当てにはならず、不確かなノイズを振りまいて状況をややこしくするだけだからはじめからない方がよい、という考え方もありえるでしょう。たしかに主観は人によって異なる現れ方をしますから、ひとつひとつの主観を詳細に分析していこうとすると処理能力が追いつかなくてパンクしちゃうでしょう。

けれど、だから主観について考えるのは無駄だという結論に達するのは早計です。ひとつひとつの主観はゆらぐにしても、そのゆらぎ方には一定の偏りがあるはずです。あるイラストを見て100人が100人てんでばらばらの主観を抱くということは滅多になくて、大抵の場合は特定の「傾向」に沿った主観の分布が生じます。そしてその「傾向」を読み解いて次なる作品で再現することこそが、創作者の仕事なのです。

WEB上での主観の表明は、たしかに精度が低いです。WEB上に表明される主観とそこに表明されない主観との間で、小さくない偏りもあるでしょう。まして、他人の主観に興味を持たない人にとって、主観の表明はノイズ以外のなにものでもないのかもしれません。

けれど、それを必要としている人にとって、そういった主観の表明は結構に大事なものです。迷惑だと言われたら小さくなるしかありませんけど、そこのところはどうか大目に見てくれたらなあと思う次第です。