作者の意図を見る理由

id:tukinohaさんの僕が作品を褒めるわけという記事をブックマークしたときに

作品を批判する際のひとつの基準として、「表現が失敗して作者の意図した効果が得られていない」場合というのを意識しています。

というコメントを書いたところ、ご本人から

Erlkonig さん>「作者の意図」が個人個人の受け取り方より優先されるということを前提にしないと、その批判は正しくないと思います。「作者の意図」ってそんなに大事なものですか?と、こんなところで聞いてみる。

というお返事をいただきました。この件に関しては

のあたりで色々言われてて、もう今さら私が何か言う必要もないんではという気持ちになりつつありますけど、「後で返事します」と言ったままずっと止めてしまってるので返事します。読者は作者を意識せずにはいられないみたいな話は既に出てるので、作品自体の話をしてみようと思います。

とりあえず、私は「作者の意図」がそれ以外の読者の受け取り方に「優先」するとはぜんぜん思ってません。たとえば清涼院流水さんの作品なんかになると、作者の意図からズレた天然の部分を楽しんだりしてますし。私がやってる「ゆらぎの神話」なんて、作者の意図をボコボコにしてやろうという遊びです。

ただし作品というのは、作者の意図した風に読まれることを想定して書かれています。だから、作者の意図通りに読んだ方が作品を楽しめる可能性が高い、とりあえず手堅いという確率の偏りはあると思います。たとえば文字コードEUCで書かれたファイルをむりやりJISコードで開いても意味をなさない可能性が高く、素直にEUCコードで開いた方がいい場合が多いです。

もちろんJISコードで開くことによって偶然何か別の意味が読み取れたりする可能性はありますし、画像ファイルで開いたら何かの絵が現れる可能性もあります。だから別にどっちの読み方が優れているかという話ではなく、あくまで偏りの問題として、作者の意図が注目される道理は十分にあるのだと思います。


で、話は変わって、ここから先は、完全に私的な「選択」の話になります。

私は、作者は作者の書きたいものを書くべきだと思っています。売れる小説を書いてお金をもうけたい人は売れる小説を書くべきだし、誰に理解されなくとも自分だけには満足のいく小説を書きたい人は、そういう小説を書くべきだと思っています。これは別に作者に限らず、「人は自分の目的を成し遂げるべきである」みたいな一般論からくる考え方なので、限定的な作品論や創作論とかとはそもそも別の次元の話です。

一般論として、「意図した成果が実現されていない」という状況は、もし本人が気付いていないなら失敗として指摘されるべきだと思っています。同様に、「意図した表現が失敗して読者に伝わっていない」という状況は、やはり指摘されるべきだという話になります。

もちろん作者の本当の意図なんて分かりませんけど、まあ「作者はこの敵を圧倒的な存在として描きたいんだな」くらいのことは予想できるときは予想できます。そういうシーンでもし「強敵」としての描写がイマイチだったりすれば、「設定に表現力が追いついてなかった気がします」くらいの意見は言えるわけです。

最初に言ったように、作者の意図の失敗が必ずしも作品の質を低下させるわけではありません。ですから、私がブックマークコメントに書いたところの批判という言葉は、必ずしも作品の優劣の評価に直接繋がるものではありません。そういうわけなので、「作品を批判」という私の言い方はあまり適切でなく、「作者を批判」と言っておいた方がよかったのかもしれませんね。