『Self-Reference ENGINE』をジョーク集と見るのはSFの色眼鏡かも知れない話

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 『Self-Reference ENGINE』という小説のやってることが「ゆらぎの神話」そのものだという話をid:hakumaのウエ紙さんから聞いていたんですけれど、調べてみたらそのものズバリ著者のサイトでゆらぎの神話への言及があっておったまげたという話。

 常にこちらの想像の枠外を行く、ありえない作品群だと思います。私たちの想像を凌駕する作品というのは、数は少なくとも存在しないわけではありません。グレッグ・イーガンさんや飛浩隆さんなど、常人にはとても追いつけないような圧倒的な想像力をもって遥かな未知世界を描き出す作家はいます。

 でも、本書に込められた想像力は、上に挙げたような類のものとは少し趣が異なる気がします。本書が読者に与える衝撃は「どうしてこんなアイデアを思いつくことができるんだ」という種の驚きというよりも、「どうしてこんなアイデアで小説を書く気になれるんだ」といった感じの半分呆れまじりの嘆息に近いからです。

 たとえば何かの拍子に「20人のフロイトが床下から発掘される」というイメージが湧いたとします。ほとんどの人は、だから何だとすぐに忘れてしまうでしょう。ところが円城さんは、そのイメージを捨てずに拾い上げます。そしてその思いつきをアイデアとして捉えなおし、大真面目に眺め続けることで、短編ひとつ分の物語にまでむくむくと膨らませていけるのです。

 だから本書の方向性は、SFというよりもむしろホルヘ・ルイス・ボルヘスさんやイタロ・カルヴィーノさんの発想に近いです。高度に発達した科学は魔法と見分けが付かないといいますけれど、極端に思考実験を突き詰めたSF小説もまた幻想小説と区別がつかないか、そもそも両者は同根のものなのかもしれません。

 SFのお約束に対するジョーク集みたいな感じで語られることもある本書ですけど、それはSFというジャンルの「お約束」がいかに「お約束化」しているかを如実に示しているとも言えるでしょう。だからこそ、本書はSFのお約束的知識を一切持たない人であっても、頭が柔軟でさえあれば難なく読み解けるような書き方がされています。

 そういった人は、SFに対するジョークという穿った見方をすることもなく、本書に書かれている世界そのままを素直に受け止めて楽しむことができると思います。作品をただ楽しむ上でどちらの立場の方が幸せかは、一概に言えないところではありますけれど。