非オリジナルはオリジナルに勝てないという仮定の下に徹底的にオリジナリティを追求しようとしたら途中で力尽きました

 リンク先の文中ではMADという言葉に統一されていますが、MAD以外の「非オリジナル」な創作行為全般に対して当てはまる主張も行われています。そういった主張について、気になった点を挙げます。

前提

しかしながらMADというものは所詮は原作あってのものであり、その恩恵を元に作られたものであるので、原作に勝てる訳は無いのである。

 何かを元にして作られたものが、元となったものに勝つことはできないという前提がまず提示されます。以降はこの評価軸を元に話が進められていますが、この前提は果たして本当でしょうか。

 たとえばロックマン2のワイリーステージ曲はもうファミコン版の原曲よりも「おっくせんまん」の方が人口に膾炙していますし、原曲と比して「一瞬の間人気が出るかもしれないけれどもそういったものはすぐに忘れられる」という結果になるとも思えません。

(「おっくせんまん」がやがて忘れられていく曲であることに異存はありませんけれど、原曲は更に速いスピードで忘れ去られているように思えます*1。たとえば十年後ふとしたきっかけでこの曲が話題に戻ったとき、思い返されるのは原曲の方でしょうか、歌詞付きアレンジの方でしょうか)

 別の例で言えば、「キリスト教神話」とダンテの『神曲』。『水滸伝』の原本と北方謙三さんの『水滸伝』。こういった作品について、前者を元にして作られた後者の作品が、前者以上の評価を受けるというケースはありえないものでしょうか。

 元ネタから流用した部分ではなく、後から付加的に付け加えられたオリジナルの部分が優れているのだ、という反論ができるかもしれません。けれど、キリスト教神話の要素を排した『神曲』や、『水滸伝』の要素を排した北方版『水滸伝*2が、非オリジナル要素を残したままのものよりも高く評価されることは自明でしょうか。

評価軸

  • 原作がとても好きで仕方が無いので自分のオリジナルストーリーを作って自分の妄想の世界を楽しみ、周りにもその楽しみをわけてあげたい。

 リンク先では、MADが作られる理由のひとつとして上のような動機が存在すると書かれています。「原作がとても好きで仕方が無いので自分のオリジナルストーリーを作って自分の妄想の世界を楽しみ」たいというのが、ここで挙げられた動機です。

 ところで、「原作なしのオリジナリティ溢れる一次創作作品」を作ることは、「原作がとても好きで仕方が無いので自分のオリジナルストーリーを作って自分の妄想の世界を楽しみ」たいという動機を満足させられるものでしょうか。これはNOです。

 たとえば、どんなにオリジナリティ溢れる創作物も、「アル×キュトのラブラブSS読みたい」という評価軸を満足させることはできません。「原作が好き」という動機そのものが最初に評価軸として挙げられているのに、途中から「オリジナルは非オリジナルより優れている」という評価軸からオリジナル作品の優越性が語られています。ここに評価軸の混乱があります。

全くもってつまらないと評されてもオリジナルという事にはそのもの自体に深い意味があるのである。人には無価値なものだと思われてもそれは世界で唯一のものである。

 最初に「オリジナルは非オリジナルより優れている」という評価軸を前提として出発している論なので、その結論が「非オリジナルよりオリジナルを作るべき」という結論に落ち着くのは道理です。けれど、その結論が評価軸を限定しない一般論として語られているように見えることには疑問を覚えます。

 「この作品のMADが見たい」「原作が好きなので二次創作物が見たい」といった欲求から生まれる評価軸は、決して例外的ではない頻度で存在します。(そうでなければ、皆MADなんて見ずに一次創作作品を選んで見ます) そういう評価軸を考慮に入れず単一の評価軸をもって「MAD(同人)を作るぐらいなら、つまらなくてもオリジナルを作ったほうがいい」とする主張は精度に欠けます。

実際にやってみた

人の物まねをするぐらいなら、自分で漫才を作ったほうがいいし、ほかの人と似たような行動をするよりは、変な方向を向いた行動をしたほうがいい。人の作ったプログラミング言語のエキスパトになるぐらいなら、自分のオリジナルのプログラム言語を作ったほうがいい。これらは非常に大事な原則であると考えられる。

 けれど「オリジナルのプログラム言語を作ったほうがいい」という辺りで非常に先鋭的な矜持を感じました。論の精度で気にかかった部分は上のような形で言及しましたけれど、それはともかくこのくらいまで徹底的な評価軸なら突き詰めればそれはそれで凄いものが見られるような気がします。ボルヘスさんとかカルヴィーノさん的ですらある発想です。これと比べれば「世界に一つだけの花」なんてプーです。

 g:flicker的には、こういうの本気で突き詰めればたいそう面白いだろうなあと思います。まず日本語を記述媒体に用いないところから始められればいいんですけれど、それを実行するには私たちのスキルはあまりにも低すぎます。ここは断腸の思いで、しばらくの間は「日本語で記述されていない」という設定の作品を日本語で記述していくあたりで妥協するしかないでしょう。

 文字などという既存の表現手段に頼るのもよくありません。もちろん音楽だって動画だってゲームだって椅子取りゲームだって陳腐です。ここは今までにない全く新規な表現媒体、あるいは表現媒体ですらない全く新しい何ものかを用いることにしましょう。そういう設定にしましょう。時間軸を水平にぶった切って並行世界の変移を時間の変移として再認識するような境地で何か考えれば結構いろいろ思いつくかもしれません。

 さて、表現手段が決まったところで、次は描く対象を考えましょう。既存作品の二次創作とか以前に、そもそも実在の種である「人類」が登場している時点で純粋なオリジナル*3の追求はありえません。人間心理なんて扱ってる時点で手垢にまみれているのです。いえそもそも、「この宇宙」という既存の舞台を用いるのもNGです。物理法則も存在の在り方も何もかもが異なる、全く別の宇宙の表現対象、あるいは全く別の宇宙ですらない何処かの表現対象ですらない何ものかを想定しましょう。

 これでかなりオリジナリティを追求できたつもりですけれど、まだまだ私の目に届かない非オリジナル要素が含まれていることは想像に難くありません。非オリジナリティの排除とは、それくらい困難なことだからです。だから私は、さらなるオリジナリティの追求のためここでさらに「あらゆる非オリジナリティが排除されている」という設定をここに付け加えます。当然、この設定すらどこかの誰かが既に行っているかもしれないので、そういった可能性から発生する非オリジナリティすらも排除されていると設定し、さらにその設定ゆえに発生する非オリジナリティも以下略。

 さあ、これで準備は万端です。VNIという権限を駆使して、私は遂にやりました。表現媒体ですらない何ものかによって、表現対象ですらない何ものかに対して、表現行為ですらない何かを行った結果生じた、創作物ですらない何ものか……を生み出すことに成功したのです! これはきっとこの宇宙始まって以来、いえこの宇宙がこの宇宙に分化するはるか以前の原時間的な意味での原宇宙始まって以来の試みになるでしょう! うふふふふ!

 「表現媒体ですらない何ものかによって、表現対象ですらない何ものかに対して、表現行為ですらない何かを行った結果生じた、創作物ですらない何ものか……」ああ、長いので以降これを「マロゾロンドの中身」と呼びますけれど、「マロゾロンドの中身」のその圧倒的オリジナル性ゆえに、その内容をここに表現することができないのが残念です。なぜなら、「マロゾロンドの中身」は、その存在の中に「表現という既存の行為によって表現することができない」という制限を背負っていて何らかの手段で表現してしまった「マロゾロンドの中身」は既に「マロゾロンドの中身」足りえないからです。

 それでも、私はなんとかこの「マロゾロンドの中身」の内容の一片をここに残したいと考えました。それは純粋なるオリジナル体のオリジナル性を貶める罪深き行為ですけれど、それでも私は我慢ができなかったのです。さあ、私は今、「マロゾロンドの中身」から「表現対象ですらない何ものか」というオリジナリティを奪った劣化複製体である「マロゾロンドの中身もどき」をアップしました。これがその中身です。










「マロゾロンドの中身」劣化複製体



 わ、悪いのはアルセスです! 全部あのアルセス野郎が仕組んだんです! 自民党が負けたのだってアルセスのせいなのですよ! ほ、ほうちきー! (両脇を抱えられて退場)

*1:ファミコン版をリアルタイムでプレイした人はともかく、「おっくせんまん」で初めてこの曲を聴いたような人にとっては特に。

*2:当然、もう水滸伝というタイトルではないでしょうけど。

*3:ところでさっきから「オリジナル」という形容詞を名詞のように使ってて、ちょっと違和感を覚え始めました。たまたま日本語として意味が通るけど実はまったく別の言語によって記述されているという設定にしましょう。これをパイドラの第一言理と言います。