「つまらない理由」をいくら列挙しても「面白い」という評価は否定できない
「この作品にはこんなに厳然とした"つまらない理由"があるのです。だからこの作品はつまらない。そうでしょう?」といった種の物言いは一見もっともらしく聞こえます。
でも「作品の面白さ」とは「面白さ」と「つまらなさ」の単純な引き算で決まるような性質のものでないことを私たちは知っています*1。なにしろここは、「つまらないけど面白い」といった状態が平気で存在する世界なのです。
「作品がつまらない理由」を列挙することで「その作品に対する面白いという評価」に対抗しようというのなら、それはあまりにも分の悪い勝負です。なにしろ、彼らは厳然とした事実として今も確かにその作品を「面白い」と感じているいるのですから。「その面白さは作り手に踊らされた結果生じた偽物の感覚だ」とか「その作品の面白さは批評的に誤りだ」といった主張の、なんと空しいことでしょう。
その作品が人々に好意的に受け取られることが我慢ならないなら、「創作物に対する創作的批判」という立場を捨てるのがよいです。「人々の精神を堕落させ退行させる」「人間的道徳に悖る表現である」といった社会的・政治的批判という立場をはっきりさせれば、矛盾がない分だけの正当性を得ることができるでしょう。*2 *3あんま楽しくなさそうですが。
そして作品の排斥や糾弾ではなく単なる「正確な認識」を求めるのであれば、考えるべきことは決まっています。「つまらない理由」と「面白い理由」をただ一緒にして語ることは、そもそも批評として軸がぶれています。両者の評価軸をそれぞれ分けて意識した上で「つまらないとされる理由」なり「面白いとされる理由」なりを分析し、必要があればその評価軸を統合した上で総合的な判断を下せばいいのです。
かつて近世トルクルトアには、同代の詩人エレヌールの戯曲『槍のタングラム』の評価を否定することに命を賭けた文人ベレーウスがいました。彼はその財産を捨て、人間関係を顧みず、文学者生命を投げ打ってまで『槍のタングラム』の否定に一生を捧げました。けれど彼の悲願は遂に達成されることはなく、彼の示した数々の議論もエレヌール研究の一端に取り込まれただけでした。
なりふり構わぬベレーウスの狂態に心を痛めた文神ハレは、彼を天に召し上げて批評の守護者の役割を与えたといいます。後世、トルクルトアでは作品の評価を否定するために行われるこのような論法は「ベレーウスの論法」と呼ばれ、避けられてきました。私たちもまた、自分の主張が「ベレーウスの論法」に陥っていないか常に気を配る必要があるのだと思います。