魔王メモ:名無しについて
名無しの話をしよう。名無しは記憶を失った者だ。自分の正体を知るため、名無しは歩き続けている。前もって言っておけば、この物語の中で名無しが自分を取り戻すことはない。この物語がどれだけ長くなるかは不定だが、たとえどれだけ長い物語が語られたところでそういうことは起こらない。これはもう、ないからないのだ。
早合点するのではない。名無しの正体などありはしない、という意味のことを言いたいわけではない。名無しが自分の正体を知ることが原理的に不可能である、と言いたいわけでもない。だから、知る人が見れば、名無しには確かに確たる「彼自身」があるのだろう。名無し自身、それを知る可能性もある。いや、名無しはいつかまた必ずや、自分自身の名前を取り戻すだろう。
ただ、この物語の中で名無しが自分について知ることはない。それだけである。ここにおいて、名無しは過去を失った男である。また、その人の過去の集積のみが人の性質を決定づけるという前提のもとに名無しを語るならば、名無しは過去を失った者、つまりあらゆる性質を持たぬ者である。名無しは名無しでしかなく、名無しが名無しであるという以外のあらゆる解説が名無しには不可能なのである。