押井守『スカイ・クロラ』の描くもの、それは希望か絶望か
だいぶ前に見てました。はじめての押井さんです。 感想を書こうと思うんですけれど、こういった色んな人に浅からぬ影響を与えてる監督さんの作品に不用意に言及するとどこから爆弾飛んでくるか分からないので怖いですね!
ある人は本作を「前向きな作品だ」と言いますけれど、別の人は「地獄のような状況を描いている」と主張します。両者はまるで正反対のような主張に見えます。私も一見したときは、本作は希望が描いているのだと感じました。作中で、登場人物は前進のための一歩を踏み出そうとするからです。
でもよくよく思い返してみると、この作中で「踏み出した足がどうなったか」まではたしかに描かれていませんでした。登場人物は歩く意思を見せたけれども、そうやって踏み出した足は本当に前に着地したのでしょうか。実は動く床の上に乗せられていて、いくら足を動かそうと自分の座標位置が前に進むことはないのかもしれないのです。
大抵の作品であれば、ここまで描いてくれれば「彼は前に進めたのだな」とその先の光景を補完することができます。でも押井作品をよく知る人が鑑賞後苦虫を噛みつぶしたような顔をしてるのを見ていると、この監督さんに限ってはそう易々とは解釈できないのではという気にもなってきます。
だとすれば、この作品は「終わりなき絶望の道をそれでも歩め」と訴えているようにも見えてきます。そりゃたしかに地獄のような状況でありましょう。
押井さんの意図について考えたいなら、原作と映画との差異に目を向けてみるのがひとつの有効な方法だと思います。本作は原作小説とシナリオを概ね同じくしていますが、お話が終盤に至ったところで重要な改編がなされています。あえてこのタイミングで展開を変えてきた、そこに監督さんの意思があるはずです。
森さんの原作では、主人公は最後まで"戦い"に参加しません。彼は戦闘機乗りで、敵を殺しながら生きています。でも彼は意識の上ではあくまで純粋な"自分のみ"の世界を生きていて、他のなにものにも参加していなかったと思います。けれど、押井さんはあえて主人公を"戦い"に参加させました。この改編点にこそ、本作の核心と言えるものが存在している気がします。