大陸小説の圧倒的ダイナミズム! - 金庸『秘曲 笑傲江湖(一) 殺戮の序曲』

秘曲 笑傲江湖〈1〉殺戮の序曲 金庸武侠小説集 (徳間文庫)

 楽しい! この楽しさ尋常ではありません。中国の武侠小説であり、山田風太郎さんのような伝奇小説にも通じ、さらにはライトノベル活劇の文脈にも通じる。とても間口が広く、そしてどの文脈でも一級のダイナミズムに溢れた作品です。

 この作品の任侠世界、そこにはまず正派と邪派があります。「五嶽剣派」なる五つの流派を中心とした師弟組織が正派序列を固め、対する邪派「魔教」の教主はあの有名な東方不敗! 生派と邪派の対立、正派同士での内部闘争、そういった大きな波に翻弄される豪傑たちの生き方と、これでおもしろくならないはずのない要素がこれでもかと詰め込まれています。この構図だけでも、もうよだれがあふれて仕方ありません。

 各流派は当然それぞれ必殺技を持ち、さすがに戦闘中に技名を叫んだりはしないものの外野の見物人たちが「あの技は***!」みたいな感じで解説まで入れてくれます。まさに至れり尽くせり。たとえばこの作品の設定資料集みたいなものを作るだけでも、かなり楽しめる読み物ができあがってしまうことでしょう。

 キャラクター小説として登場人物が個性的に確立されているのも評判通り。しかも不思議と、ただ類型に当てはめただけという印象も受けません。既存の類型にあてはめることでキャラクターを確立してるのではなく、ちゃんと描写によってキャラクターを確立し、それをもって自然と個性的な書き分けが成功しているという気がします。

 日本と中国のお国柄の違いなのか単に金庸さんの特徴なのか、不思議なストーリーテリングだなと感じるところもあります。200ページ近くもお話が続いていき、中心となっているキャラクターが主人公であることを誰もが疑わなくなったところでいきなり視点が切り替わります。そしてそこから100何ページもの間、ついさっきまで主人公のように見えていたキャラクターを完全に無視してお話が続き、遂に忘れたくらいの頃になってまた視点が戻ってくる。そんな風なダイナミックな語りの移動が、本作では多用されています。

 指ではとても数えられないような多数の登場人物の出てくるお話ですから、視点の移動が多いのは頷けます。ただ、そういう作品ではお話が短く小分けにされながら個々のシーンが順繰りに描かれていくのが常なんですけど、金庸さんはもっと大味です。小分けどころかマグロを大きくぶつ切りにするように、まず長いお話を目の前にどんと置いて、しばらくしてからまた別の長いお話をどんと置くという手際なのです。実にダイナミックな、いかにも大陸小説といった感じです。こういった読みなれない部分もまた刺激的で、確かにこの作品は歴史の中に名を残す一大娯楽活劇だと思うのでした。