事実は公平に、物語は恣意的に - 荒山徹 『サラン、故郷忘じたく候』

サラン・故郷忘じたく候 (文春文庫)

 柳生とか妖術とか荒山さんお得意の伝記色を抑え、一見すると落ち着いた趣に見える歴史短編集。でもいくら柳生色とか妖術色を抑えても、書いてるのが荒山さんである以上アレな内容にならずにはおれません。破天荒な伝記バトルとかより現実味があり、堅実ですらあるまっとうな歴史読み物になってる分、その主張はより明確になっているとも言えてしまいます。おお恐ろしい。

 それにしても、なんなのでしょう。ここに書かれていることが根も葉もない誹謗中傷かというと、やはりそんなこともないのだろうと思うのです。両班の支配が差別的で苛烈を極めていたという指摘は、多分そんな無茶な言いがかりでもないんでしょう。描写の比重が不公平かというと、豊臣秀吉徳川家康の陣営だって両班に劣らず悪辣に描かれています。

 だから解説にあるように、朝鮮であるとか日本であるとかは関係なく、荒山さんはただ権力者の横暴を糾弾しているのだ、と読むこともできます。たしかに、書かれていることだけを見てみると、これはどこまでの公平であるようにも思えてくるのです。

 にも関わらず、読後感としてのこの作品の印象は「すごく意地悪」というものなんですよね。もしこの作品が本当に公平に描かれてのだいるとしたら、この作品を意地悪と感じてしまうのは自分の方で恣意的なフィルタをかけてしまっているからなのではないか、とかなんとか、恐ろしい可能性にも行き当たってしまいます。いえ多分それだけでもなく、この作品は言ってみれば「事象に対しては公平かつ客観的に、物語に対しては意地悪に恣意的に描かれた作品」なのだと思います。だから、この作品の主張を自分の中でどう受けとめればいいのやら、なかなか整理がつかないのでした。