個性は昔からファンタジーだったし、誰も本気で信じてはいなかった

 シロクマ先生。記事タイトルに表されている主張自体に関しては、特に有意な意見はありません。ただし、論の運び方にややシャドーボクシングっぽさを感じました。

 この記事では「個性を礼賛する人」という仮想の人格が想定されていて、その人に対する説教が書かれている。そしてこの「個性さん」は世の人々の平均的な姿であり、「個性さん」批判を通じて人々の認識の誤りをも指摘するという構図になっている、と読み取りました。

 でも、この「個性さん」みたいな人って本当に実在するのか、その人は本当に「私たち」を象徴する人格なのか、というところに疑問を感じます。たしかに、私たちは昔から「個性は大事」って言われて育ってきましたし、数年前は多くの人が『世界に一つだけの花』を歌ってました。でも、そのブームの渦中にあってさえ、「個性は無制限に素晴らしく、世の中は僕らの個性を受け入れらてくれる」なんて本気で思ってた人はほとんどいなかったと感じるのです。

 むしろ、「個性を受け入れる社会」が夢物語のファンタジーであるからこそ、聞こえのいい言葉として「個性礼賛」がああいう風に謳われたのではと思います。そして『世界に一つだけの花』は、今が個性を受け入れてくれる世の中でよかったね、という歌ではなく、いつか個性を受け入れてくれる世の中になったらいいね、そういう世の中に皆でしていこうね、という、実社会の現状に対抗するための祈りのような歌だったのではないでしょうか。

 トレンディドラマみたいないちばん大衆的な媒体ですら、(困難の度合いの強弱はあるにせよ)この世の中で個性を貫くのは難しい、それでも個性を貫くのは素晴らしい、みたいな文脈で語られていました。決して「社会は個性を肯定するものだ」とは言っていなかったのです。そういった空気は、子供だって敏感に感じ取れていたと思います。

 だから、「あなた方は個性が社会に受け入れてもらえると信じていたようだが、実際の社会ではそんなに甘くはないんだよ」という改まった姿勢で事実を指摘するこの記事に、私たちは違和感を覚えるのです。あなたの言っていることは正しい、でもそんなこと、私たちはあの頃からとっくに知っていた。それをなぜ今さら説教のように諭されなければならないのか、と。

 個性を手放しで信じる「個性さん」はこの記事を書いた人の想定の中にしか存在しないし、「個性」なんてずっと昔からファンタジーに過ぎなかった、と私は思います。