罵倒に罵倒で返すことで相手に過ちを気付かせるという選択

 伸びてきたので、ページ移してこれのコメント欄の続き。前回コメントで前提とした事項に疑問が呈されているので、立ち戻って補足・説明します。

自分なりの正当性があって書いたエントリ(マイルールと言ってもいいでしょう)を、「明らかな誤読」をする相手に対して、
相手と同じようなののしり方」で対応するというのは、私なりの「解決」へ向けての考えてがあってのこと。

「ますますsnakefingerさんの評価を下げる結果になっています」とあるが、その根拠はなんなんですか?

 snakefingerさんの記事に対する、ブックマークやトラックバック等における第三者の反応を根拠としています。

 揶揄・罵倒的な記事に対して、反発的な反応の割合はむしろ増加している、というのが私の印象です。また、「罵倒に罵倒で返す」という方法が、「相手に自分の過ちを気づかせる有効な方法である」という主張に関しても、それが功を奏したという因果関係を読み取ることが私にはできませんでした。(e)

 上記意見は、第三者の言動を判断の材料にしましたが、最終的には私自身の主観によって評価を下したものです。またこの意見は、下記のsnakefingerさんの印象と食い違います。

ギャラリーの前で、私が明らかな誤読を繰り返す連中に反駁したことで、
コメ欄の酷い状況は少しマシな状況になっているというふうに見えますが。
これを私は、それなりに自己反省を促せたと考えているのですが、違うんですか?

(上記fとする)

 両者の主観的判断が食い違う形となっているので、前提(e)を強く主張しないこととします。前回コメントは「罵倒に対し罵倒で返すという方法は功を奏していない」という前提(e)を元に書いているので、これを根拠とした主張も同様に扱います。

あなたは、普通の言葉で投げかけて、最初からあのようなコメントを書く人が
ハイと素直に改心するなんて、本気で思っているんですか

 まず、最初に目にしたのが罵倒の記事だったという人が多数存在し、「普通の言葉で投げかけ」た人ばかりが問題になっているわけではないことにご留意ください。

 当然のことですが、snakefingerさんにバックグラウンドがあるように、コメント主の人たちにもそれぞれ内面があります。「罵倒に罵倒で返す」等のマイルールがどう認識されるかという問題もあるので、単純に素直に改心という反応を示す人はほとんどいないでしょう。けれど、新しく提示された情報はそういうものとして受け取られるはずで、全く汲み取られないと言うことは決してないと考えます。(g)

 snakefingerさんの罵倒記事に批判的なコメントをしている人の中には、別の機会では非常に理性的な発言をされている人が存在します。「自分なりの正当性」という背景を知らないままに罵倒記事を目にし、「話が通じない人だ」と判断して批判的なコメントを残した人は少なくないと思われます。(これは私自身の動機でもあります) 彼ら全員の性根が腐っているとは、決して思いません。(h)

 私に関しては、今回のコメント欄で背景と意図について説明していただいたので、少なくとも一言で意見を切って捨てるような批判は行わないよう態度を改めました。あのようなマイルールについての説明をサイトで明示しておけば、意思疎通は現状よりだいぶスムーズになるように思われます。(i)

 以上は全て、最終的に私の心象を根拠とした意見です。なので、これも(e)と同様、強弁することはできません。
 

「どうせこういうことを書くだろう」とか「キモイ」とか「マナー(笑)」といったようなことを
いかなる理由があれ、不用意に書くような相手に対して。

 ブックマークの罵倒コメントを見てsnakefingerさんが思ったことは、snakefingerさん罵倒記事を見たコメント主たちも当然思っているはずで、両者は対称の構造を持っているということにご留意ください。「いかなる理由があれ、批判相手の肖像に大便を垂れ流させて揶揄するような絵を描く人と話が通じる」というのは、この絵を初めて見た時の私には想像しがたいものでした。ところが、実際はそうではなかったわけです。

なぜそんな身勝手なことを、さも事実のように書くのか? これも意図的なんでしょ。
枝葉ばかりにみてコメ主を擁護し、ブログ主の「気持ち」を延々くみ取ろうとしないあなたって一体?

 その他、「言葉尻を捕まえて」「誘導発言」等の言い回しを、サイト含めて幾度かされていますが、私はsnakefingerさんの意図そのものを知っているわけではないので、その言葉を読み取って推測していくしかありません。意思疎通の中途の段階ではお互いの文脈が掴めないので、snakefingerさんから見ると「本論」ではない部分に言及していることは多数あると思います。同様の問題は私の方にも生じていますし、これは文脈の異なる相手と話す際に必ず生じる問題です。

 文章の中の情報は熟読することで把握することができますが、その裏側にある書き手の意図や背景は、認識のすり合わせを繰り返し行わない限り把握できないことです。「言いたいことは全て書いたのだから、熟読すればすべて理解できるはずだ」と考えるのは、実際にはとても難しいことと思われます。素朴な作法の話になりますが、「言葉尻を捕まえて」とか「誘導発言」という文脈で相手の内面を想定し、相手に読解力がないことや悪意があることを前提に話を進めても、決して有意義な議論ができるものではないと考えます。(h)に関連して、寄せられるブックマークコメントを同様の理由で切り捨てておられますが、それらが短慮や悪意によるものばかりであるとは、私には考えられません。

 飽きられたならいつでも応答をやめていただいて結構ですが、先述しました通り話が内面の押し付け合いになるのは本意ではありません。証明できないことを承知で言うなら、私は両者の認識をどのようにすり合わせるかについてこそ腐心しており、一コメント数時間、計数十時間をかけて臨んでいます。単なる悪意等の生半可な考えで応答しているわけではありません。
 
 以上、いくつかの主張を示しました。前提事項についてだいぶ掘り下げたと思いますが、「理解できないのは相手がまともに読解するつもりがないからか、説明が不十分だからか」などの最終的な判断は、ひどく主観な主張にしかなりません。そのため、いずれの問題についても「それは私の主観的判断にすぎない」と反駁されれば、それ以上強く主張することはできませんし、それに問題があるとは考えません。最終的な判断は互いの主観に委ねるにしろ、それ以外情報として共有できる状況の認識をすり合わせ、主観と客観の境界を割り出すことに議論の意義があると考えます。(自分の主観的判断を強弁し、認めさせるのが私の目的でないことはを理解いただきたく思います)