私たちの文芸には、システマーがいない
野球プレイヤー/野球システマー
野球にたとえます。
野球のプレイヤーは、野球をします。プレイヤーは「野球のシステム」を熟知しようとし、「野球のシステム」に則ったハイレベルなプレイを目指します。自身の能力を磨くと共に、「野球のシステム」の中でどう動けば良いプレイができるか、を追求します。
野球のプレイヤーは、野球のシステム=ルールをどうこうしようとは、あまり考えません。"優れた野球プレイヤーは、いつもより良いルーリングを提案しようと模索している"というような話は、あまり聞いたことがありません。
「野球のシステム」は、たとえば「公認野球規則」の作成に当たる人たちによって決められます。彼らを野球システマ-と呼ぶことができるでしょう。重なるところはあるでしょうが、野球プレイヤー=野球システマ-ではないと言えます。
文芸プレイヤー/文芸システマー
以上を文芸に当てはめます。
文芸の場合でも、「"……"は三点リーダ二つで表現し、それより短くても長くてもいけない」みたいな、業界標準のお約束は色々あるようです。でも、「公認文芸規則」を誰かが作ってるという話は聞いたことがありません。「文芸プレイヤー」と「文芸システマー」の境界は、野球のそれよりも曖昧で、重なる部分も多いように思えます。
それでも、世間を見渡した感じ、「文芸プレイを追求すること」の比重は、「文芸システムを追求すること」のそれと比べて、非常に高いように感じます。今でも、文芸というと、最初の一文から最後の一文までを順番に読んでいく、というシステムが多くを占めます。Web上の文芸の多くは、紙とペンと印刷技術でできることのレプリカです。
id:extrameganeの人が、もっと文芸システムを追求しろよと言っています。紙やペンや印刷技術より便利なものが、ここには沢山あるのだからと。そのための人やアイデアやトラックバックが求められているようです。
文芸システム
たとえばRPGとかで。あるアイテムや技やキャラクターにカーソルを合わせると、解説として短いフレーバーテキストが読める。そういう断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる。そうやって何かを表現するのってまさに文芸だと思うんですが、それが文芸と呼ばれることはあまりないようです。
そういう手法を取っている作品は既にいくつもあるのですが、それが文芸の手法と認識されることがない。文芸を自称する人たちよりも、ゲームデザイナーの方が「文」の新しい使い方を模索していたりする。文芸の側に立った時、そういうのが「ゲーム側のもの」としか認識されない状況は腹立ちます。腹立つので、それを文芸の側に取り戻したいと思うのです。
あくまでプレイヤーであり続ける人は、必要だと思います。カッコ付きの「文芸」とは「文芸」という一スポーツであり、ルールをどうこうするよりも「文芸」というスポーツそれ自体を追求する。そういう無骨なスタンスは、いいものです。自分はどういうスタンスなのか、と自問してみるのがよいでしょう。