文芸がだめならアンパンでもいいですよ


 無用な混乱を避けるため、話の範囲を限定します。

「議論」が「相手の意見を聞くこと」だなんてお前の勝手な決めつけだ。議論というのはお前が言うような生易しいものじゃない。勝つか負けるかの言葉の戦いなんだよ。

わかりました。それではこれ以降、私は「議論」という言葉を「勝つか負けるかの言葉の争い」という意味で使います。そして、私が今まで「議論」と呼んでいたものはこれから「アンパン」と呼ぶことにします。「文芸」という言葉の権威や一般性が欲しいわけではなく、何と呼ぼうと「何をするか」「何をしたいか」の内実自体は変わりません。


ところで、私は議論のしかたには興味がありません。それよりアンパンのしかたを話し合いませんか?

「文にかかわる芸」全般のことを、私はここで「文芸」と呼んでいます。それを文芸と呼ぶ必要があるのか、という意見と対立して名前を奪い合うつもりはないので、そういう人は「文芸」を「アンパン」とでも読みかえてください。

 前の記事でスポーツの例を出しましたが、たとえば小さい頃から陸上選手目指してひたすら走り込んでるような人に対して、「単調な徒競走より野球の方がゲーム性があるのになぜ野球をやらないのか」とか非難するのはひどく的外れだと思います。なので、そういう人を「檻の中に閉じ籠もっている」的に揶揄するのはあまり好きくありません。

 だから、自分のスタンスを自問するといいよ、と言いました。陸上を追求したい人は陸上をやるべきだし、野球やりたい人は野球をやるべきです。ただし、スポーツという大きな括りの中で何かを追求したいと思ってる人は、ひとつの競技に限らずいろんなものを知った方がいいでしょう。そのような指向性を持ちつつも、周囲に野球やってる人しかいなかったから野球以外のスポーツを知らない、という人がいるのなら、その人は外への一歩を踏み出すべきだということです。

 実際そういう人がどのくらいるのか分かりませんが、そんなに皆が皆、特定のスポーツだけに入れ込むスペシャリストであるようには思えません。「文学フリマにおける活動のほとんどが従来通りの紙の本を前提としている」という状況にid:extrameganeの人が疑問を感じたのは理解できるし、そういう問題意識には共感できます。理学と工学の関係よろしく、純正研究の科学者が応用開発の技術者を数で圧倒するような国は多分長生きしないと思うんですけど、科学者が少なすぎても発展は見込めないわけです。

 私にしても、ありとあらゆる「文芸」の範囲をオールカバーして攻めていきたい、という気概があるわけではありません。私がもっとも目指したいのは、断片拡散構造を持った口伝の時代のフィクションへの「先祖返り」*1です。「新しい技術」が神話時代のスタイルを実現してくれる可能性があるから、「新しい文芸を!」という呼びかけに呼応しましたが、これは尻馬に乗っているとも言えます。本来的に、私自身はどちらかというと前進よりも解体指向であるわけです。

 今までは他にやる方法もあんまりなかった*2ので、あまり積極的にシステムの枠組み自体を考える妥当性もありませんでした。道自体が狭い一本路だったので、いちいち俯瞰的に方角を確認せずとも、人の流れに合わせて歩いていれば問題なかったわけです。ところが今の私たちは、もう少し開けた広場に差し掛かっています。せっかく広い場所まで来られたんですから、巡礼教徒のようにむやみに一列にならず、「自分はどっちに行きたいのか」を一度見定めてから歩き始めればいいのだと思います。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kilrey/20090604フォークロア的なフィクションに関する言及がありましたが、まさにそういうことを私はずっと言い続けています。これに関してはまた後ほど書きます。

*2:と言いつつ、ハイパーテキストも何十年も前の発想ですし、Webが普及してからもだいぶ経つし、えー今さらーって感じでもあるのですが。