文芸の進化より解体が見たい

 次回の記事のための前フリ。

 技術が増えればできることも増えるので、そっち方面の期待はもちろんしてます。がー。私にあるのは、文芸の進化というよりむしろ解体のイメージ。神話の時代には著作権なんてなかったし、みんな好き勝手に尾ひれ葉ひれ*1つけて話を大きくしてたし、地域によっていろいろ諸説バージョン重なり合ってるのは今から見ると面白いし、「きまった順番に鑑賞する」なんて慣例も当然なかったわけで、私はそういうところまで先祖返りしたいのです。

 神話の時代が終わって、なんで「順番に読む」というスタイルが定着したかというと−。それは社会とか政治、学問の発展の上で情報を体系づける必要があったことと、もうひとつはやっぱり「本」という技術が便利すぎたことに一因があるのでしょう。あやふやなで壊れやすい*2人の記憶に依らず、大量の情報を確実に保存する方法の主役は長らく「本」だったから、「本」という形式に最適化するためのいちばん便利な方式、一直線な読み方/書き方が定着したと。*3

 つまり、技術に合わせて文化の方が形を変えていったとも言えるわけです。逆を言えば、ふさわしい技術が存在しなかったから「神話の時代のやり方」は廃れてしまったのであって、その表現形式としての面白さ・豊穣さが、そのものとして劣っていたわけでは決してないと思うのです。


 でー。紙の本という技術を脱皮しつつある現在では、「紙の本」の必要に合わせるためにもたらされた制約を、一度リセットすることができます。技術がなくて継続できなかった神話の時代のやり方、「みんなが好き勝手に創作していたあのスタイル」そのままのことを、今ならもっと効率的に行えます。そういうことを考える人たちはもっといていいはず*4だし、もっと自覚的になり、もっと声を上げていい。というのが今の私の感覚です。*5

ゆらぎの神話」はそのための実験だし、概念としての「フリーシェアワールド」を言い出したのも、こういった考えを受けてのこと。実際にちょっとやってみた感触としては、やり方次第で成功も失敗もするだろう、「面白い」まで行くのは実作とかなかなか大変だけど、「面白そう」という実感は既にしてすごくある……というところ。そのシステムをどう"上手く"実現するか、に頭をひねっている段階です。

 これはもう何年も前に書いた記事で、根本的な考えはずっと同じなのですが、今ならだいぶ違った説明をすることができるでしょう。その新しい説明は、少し前から裏の方でちょっとずつ書いてます。id:extrameganeさんの議題とは重なるところが多いし、この流れに乗って公開するのがタイミングとしてはベターだと思っています。また、そのうちお目見えします。

*1:根掘り葉掘りと混ざった。

*2:「あやふやなで壊れやすい」三連携

*3:このへん、危ない歴史認識の話してるので突っ込み歓迎ですが……。

*4:2chのAAとかふたばキャラとかが既に存在するし、そういう意味で「新しいことを言っている」という感覚すらあんまりないです。自分たちのこととしてもっと目を向けよう、というだけで

*5:もちろん、その「解体」には「小説の決まりごと」みたいなのも含まれて、そのあたりは文語体から口語体への「解体」等、先進的な人がいろいろやってはります。