伏線と描写の区別がない『新しい太陽のウールス』
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なんで小畑健やねん。
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『新しい太陽の書』シリーズ、幻の第5巻。80年代に4巻までが訳された時は、続編である本書の訳本出版には至りませんでした。それで長らく未訳になっていた本書が、昨年の前巻新訳によってついに出版。日本では寡訳なジーン・ウルフのファンにとっては、わりと狂喜な出来事だったと思います。
でも小畑健。
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胎界主の紹介で、「全描写が伏線」という言葉を使いました。この表現はもともと、ジーン・ウルフさんの作品を読んでいる時に思いついたもの*1。
最初は「なんて奇想ばかりする作家なんだろう」と思いました。出ては消えていく「思いつき」を、よくこれだけ集められるなあと。でも、読み進めると、それが単なる「思いつき」でないことが分かるわけです。単なる奇想に思える描写のことごとくは、実は濃密に作りこまれた世界設定、そして時系列に従っています。こういった描写が、本作は全編に張り巡らされています。
「伏線を張る」という感じではありません。あまりのも世界が作り込まれているから、その世界の原則に従って普通に描写をするだけで、それが結果的には伏線として機能してしまう、という。五作目にもなると、その作り込みの具合はますます顕著。既刊のあれはああいうことだったのか、とう要素が、ここに来てもさらに幾つも現れてきます。
続編である本作は、前作の執筆段階ではそもそも書かれるかどうかも分からなかった作品であるようです。なので、本書の全てが最初から計算尽くだった、というわけではないのでしょう。にも関わらず、前作で印象的に散りばめられた暗示的要素が本作で伏線として機能している、という構造は現実に存在します。
過去の記述を拾い上げてそのように機能させちゃう技量も凄いし、そういう続編を可能とするような記述を普段から素で行っているという作風も凄いです。ほんと、巨人か怪物みたいな作家さんだと思います。
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でも小畑健。
同じく小畑さんが表紙を書いた『人間失格』なんかは、普段小説を読まない人が古典の名作を手に取るきっかけを与えるという意味で、それはそれで有効な手段であったと思います。でも、本書で同じことが言えるかというと……。普段小説を読まない層に、こなれたSF読みの人でさえ手に負えないジーン・ウルフさんの小説をいきなりアピールするというのは、いくらなんでも無理が過ぎるでしょう。
ただ、そういうマーケティングの意図ではなく、単純に「新装版の表紙絵」としてこれを見たなら、あながち的外れな人選でもなかったのかも? とも思い。メジャー方面にブレイクしちゃった絵描きさんではありますけれど、絵そのものを見て「かっこいい」のは本当だと思うので。旧版の天野喜孝さんは巨匠すぎて、比べちゃうのはあまりにもあんまりですし……。
頭脳明晰で冷徹な美男子、のように見えて実は行動がお間抜けすぎる主人公・セヴェリアンさんの造型って、意外と小畑さんの画風にお似合いだと思うのです。「もし夜神月が間抜けだったら」という異型にも見えます。あの絵で、あのハンサムで利口そうな顔して、「大事な剣が折れちゃったよーうわーん」とかマジ泣きするのって、なんかすごいいいと思うんですがどうですかどうですか。