「やる夫シリーズ」とケータイ小説の表現的類似など - 『やる夫がドラゴンクエスト3で遊び人になるようです』

「やる夫シリーズ」って1〜2スレッドくらいで終わるやつでしょ? と軽い気持ちで読み始めたら……甘かったです。蓋を開けてみれば、まとめサイトですら28ページに及ぶ大長編。これがまたえらい面白かったもんですから、時間にしてまるまる6時間、がっつり一気読みしてしまいました。最初はのんびり読んでたんですが、第6話で一気に突き抜けた感じ。めぼしいイベントはほぼ網羅しているので、DQ3ファンはそれだけでも楽しめるかなと思います。

ふたつのレイヤ

 これが初期メンバー。途中で登場するサブキャラやボスモンスターも、京アニ/ローゼンメイデン/ひぐらしあたりをベースにした構成。長編のやる夫シリーズというのを読んだのは初めてだったのですが、スターシステムとクロスオーバーのごっちゃ煮感がすごく面白くて、『ジャイアントロボ』にも通じる刺激がありました。

 作品の基盤となる下層部分として、固定的な原作プロットがまずあります。その上に、二次キャラクターたちの個々のストーリーという上層が乗せられています。ゲームイベントとしての「シナリオチャート」はなるべく維持しつつ、キャラクターたち固有のオリジナルストーリーによって同じシーンの「意味づけ」をがらりと変えてしまう。そういう編集的創作の面白さがここにあります。

「原作のあのシーンに、こういう意味づけを与えるのか!」という刺激。それは原作イメージとのギャップによって生み出される笑いであることもありますし、原作では何気なかったシーンに重要な意味を付与することへの感心であったりもします。上層、二次キャラクターのレイヤで張り巡らされた伏線が、最終的には下層の原作プロットにおいて意外な形で回収され結実する。そういうパズル的な技巧に対して、驚きを感じることすらありました。北方水滸伝とかもそうでしたが、「異本」の醍醐味はこういうものかと思います。

語り

 実際読んでみると、AAと短いセリフの連続で紡がれる「やる夫シリーズ」*1的な語り口って、いわゆるケータイ小説*2の表現と通じるところがあるなと思いました。

「やる夫シリーズ」やケータイ小説では、地の文による詳細な描写があまり前に出てきません。だから情緒的な情報は、セリフの端々から読み取るとか、AAや顔文字などの使い回される記号的表現を手がかりにするしかありません。作品世界の丁寧な「描写」が少ないため、読者が「自分の頭の中で」ダイレクトに作品世界を想像・再現しなければならない度合いは、普通の小説よりも大きいと言えるでしょう。

 だから、ケータイ小説の登場人物の心理は、それを実際に経験したことのある人にとっては共感できる=頭の中でリアルに再現できます*3が、そうでない人にとってはちんぷんかんぷんだということが言われます。それを指して「ケータイ小説を書いてる人間の世界観が浅はかだからだ」とか言いたがる人もいますが、それよりまず作品世界と読者を「橋渡し」する説明の比重に大きな要因があるのでしょう。

「やる夫シリーズ」の場合は、読者の「経験」そのものではなく、読者が二次キャラに対して持つ「イメージ」が豊饒であるかどうかが大きな分かれ目となります。アリスドールや京アニキャラに強い愛着を持つ人ほど、この作品世界をリアルにイメージすることができるでしょう。あまりに愛着が強すぎると「こんなの**じゃない!」という違和感が生まれる可能性もありますが、詳細な「描写」を最小限にすることで、その齟齬は表面化しにくくなっています。つまり「知ってる人にとっては間口が広い」というわけです。

「地の文」としての名無し

 「自分の中にイメージがなければ理解できない」というのが、このスタイルの表現の弱点です。ただし、「やる夫シリーズ」の場合、ケータイ小説と大きく異なる救済措置があります。「やる夫シリーズ」などの2chそうさくの場合、作者自身が「地の文」による詳細な描写を行わなくても、それを読む「名無し」の人たちがリアルタイムで感想を書き込んでいってくれます。自分の知らないキャラが登場したとしても、名無しさんたちのレスを流し読みしていけば、その雰囲気を介して「イメージ」をある程度まで形作ることができるわけです。これが結果的には小説の「地の文」に近い役割を果たしていて、読者と作品世界の間にひとつの架け橋を設けてくれています。

 最後には、原作は読んでないけど水銀燈ものすごい愛着が……*4みたいな結果になることもありえるでしょう。キャラクター自身への感情移入とはちょっと違うのですが、全部読み終える頃には作品世界への不思議な"連帯感"みたいなものを感じていて、この世界から離れなければならないことをとても惜しく感じました。

 小説を礼賛するためのちょっとステロタイプな物言いに、「小説は自分の頭の中でイメージを組み立てなければいけないから、全て向こうで用意してくれる映画や漫画より能動的で高等な芸術なんだ」みたいな主張があります。この手の小説観には三割くらいしか同意できないのですが、もし「自発的にイメージするのが理想的な小説」という意見が通るのなら、ここで挙げた表現形式こそその「理想」に近い*5スタイルなんでは? とゆうようなことを考えました。

*1:AA長編とか言ってもいいのかしら。

*2:「携帯電話で書かれた小説」というツール的な意味ではなく、「あたし彼女」「恋空」的な語り口による「表現文化」の文脈を指しています。

*3:で、既に自分の頭の中で固有のイメージを持てているのなら、なまじ細かい「描写」をされて自分のイメージとの齟齬を見せつけられるよりも、説明なしの方が没入できる……というようなメカニズムがあるのかな、と思います。

*4:ただし往々にして原作からかけ離れた歪んだイメージですけどね! あとレナさんはそういうヤンデレちゃうちゅうねん!

*5:それは能動的なんじゃなくて条件反射的なだけだ、みたいなのがありそうな反論。