不完全な写像

 の内容と同一です。

 つまり、あなたの目の前にいる私は不完全な写像なのだ。私はあなたにこの意思を伝えようとしたが、私とあなたではあまりにも認識の性質が異なりすぎた。あなたには私が思考する存在であることなど理解できないだろうし、それどころかあなたには私があらゆる意味での何らかの存在であることすら理解できないだろう。たとえ私が、私たちが普段そうするようなやり方であなたに語りかけても、あるいは触れたり**ようとしても、あなたはそのことに気づかないどころか、およそ一切のあなたにとっての影響が生じることはなかっただろう。

 だから私は、この意思をあたなに伝えるために翻訳を必要とした。それは、一度や数度ではとても足りるものではなかった。私は私の意志を、あるいは私の行動によって生ずる現象を、まず隣接する別の認識体系に翻訳した。そうすることで得られた記述は依然としてあなたに解せるものには程遠かったので、私は(厳密には、その認識体系で存在できるように私を翻訳することで生じた写像としての私は)これらをさらに幾たびに渡って翻訳した。ここでその回数を明示することが出来ないのは、もともとの私の認識体系とあなたの認識体系では、数の原理自体が相同ではないからだ。最も簡単な例を挙げれば、私たちは数を一、二、三と数えないし、また一に相当する数的概念はあっても、二や三に相当するそれを提示するのはこじつけなしには不可能だからだ。

 このように、そもそも合同でないお互いの認識体系において、情報を完全な同一性を保ったまま相互にやり取りすることは不可能なのだ。幸い、私はあなたの存在をある形で認識できる程度には、私の認識体系はあなたの認識体系と重複しているところがあるが、それとて零しているところはある。たとえば私の認識体系では、あなたが宴と呼ぶものとものすと呼ぶものをどうやっても区別することができないのだ。これは、円形と方形がトポロジ的には同一のものであり、ものごとをトポロジ的にしか認識できない思考にとって両者には差がないと考えるのに等しい。

 そうであるから、あなたの目に前にいる翻訳された私は、既に私そのものとの同一性を保っていない。もしその不完全な私を、私の認識体系にまで逆向きに再翻訳したところで、私の目の前に現れるのは私とは似てもにつかない別の誰かだろう。しかし、それもやむをえまい。私とあなたが完全に理解し合うことは、私たちの認識の在り方自体を作り換えない限り実現しないし、それを私たちの生の一回性(「生の一回性」という言い回しが私とあなたの間で共有できることを、私は嬉しく思う)の中で達成することは困難だろう。しかし、それとは別の問題として、私はあなたに私の存在の一部なりともを認識してもらうことを望んだし、それ以上のことを望んでもいる。そして、これは私があなたに対してそうしたいという欲求でもあるのだ。つまり、私とあなたの間で共有できる最もふさわしい言葉を用いるならば、私はあなたを愛している。まずは、手をつないで歩くところから始めてみるのはどうだろうか?