外倫理への淡々としたまなざし - コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』

ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)

 長年探し求めてきたノーストリリア! これが新刊で読めるなんて、ほんまええ時代になったもんです……。

未知なる倫理

 本作には、大きく二つの社会が登場します。一方は、英国の君主制を起源としているらしい(ただし肝心な女王はここ1万5000年ほど不在)、長寿の秘薬の秘密を持った農牧社会オールド・ノース・オーストラリア=「ノーストリリア」。もう一方は、あの「人類補完機構」の支配下に置かれ、厳格な規制によって膠着していた文化の復興段階にあるマンホーム=「地球」。

 人間の寿命を数百年から数千年というスパンでコントロールできるようになったため、「いつまで生かすか」=「どのタイミングで殺すか」をも能動的に決定せざるをえなくなった時代です。たとえばノーストリリアでは、人口調整と人間の質の保持のため、不出来な子供は成人前に「間引き」する*1……といったことが、政府主導の下に平然と行われています。

 一方の地球社会も複雑で、人間にきわめて近い、あるいはそれ以上の知能を持った「動物」である下級民が人類に奉仕しています。彼らはうっかり下級民立ち入り禁止区域に入ったり、間違ったトイレを使っただけで殺処分されてしまう扱い。その一方で、地球人の寿命は特別な事情がない限り一律400歳と定められていたりもして、極端な格差と平等が主義が、奇妙な形に入り混じっているように見えます。

 こういった社会が、単なるディストピアとして否定的に書かれているわけでもないのが、本作の興味深いところです。このまま文明が進歩していけば、そしてありうべき岐路に立って選択をしていけば、社会は当然なるべくしてそういう道徳に辿り着くだろう、という感じ。そこには、作者の突き放したような倫理観の在り方が垣間見られます。

 たとえば、本作の主人公ロッド・マクバンはノーストリリア人で、地球という異文化社会における極端な下級民差別に違和感を覚えます*2。その差別的状況を打破するため、彼は少なからぬ働きをするのですが、では故郷ノーストリリアの「間引き」制度に対してはどうかというと、別に何もしません。彼にとって地球の社会は異常だけれど、故郷がそうだとは思わない。自分を支配する力に対する反発を抱きこそすれ、それは制度的な批判ではない……というあたりに、倫理観の中で生きるとはどういうことかを外側から見下ろす視点が表れているようでした。

架空体系

 作者・コードウェイナー・スミスさんの強く影響を受けている人として、私は特に二人の作家を思い出します。一人は『ブギーポップ』『ナイトウオッチ』シリーズ等の上遠野浩平さん、もう一人は「アンディー・メンテ」のフリーゲーム作家であるジスカルド(泉和良)さん。上遠野浩平さんの作品に登場する「統和機構」は「人類補完機構」(Instrumentality of Mankind)の別訳ですし、ジスカルドさんはもっとあからさまにノーストリリアやヴォマクト、燃える脳といったキーワードを頻出させています。

 ですがこれらの作品からは、単なるオマージュ以上に特徴的な影響を見出すことも出来ます。それは、作品世界の構成と語り方です。ほんの一時代に注目して断片的な光景を描き出しつつも、その背景には何万年とか何億年、あるいは幾多の平行世界や架空世界までをも含んだ遠大深遠な世界を背景に想定している。「人類補完機構」シリーズが扱う歴史は高々数万年といったところですが、断片的な光景の提示から広大な歴史を垣間見せるという手法は、両作者の根本的なところに影響を与えているのだと思います。

*1:ただし、処分前に並みの人間が一生に味わう以上の快楽を脳に与える。

*2:ノーストリリアの場合、そもそも下級民は立ち入ることのできな社会なのですが。