『クリスマス・テロル』がなんか普通の小説だった件

クリスマス・テロル<invisible×inventor> (講談社文庫)

 地雷中の地雷、壁本中の壁本、みたいな極端に酷い前評判が散々に渦巻いていたせいで、実際に読んでみると酷く大人しい作品だったなあという印象。本編終了後のアレは、別に仕掛けとして新しいこと、際だって奇抜なことをやってるわけではありません。書いた人の精神性が常軌を逸して幼稚だったとかであれば、その背景を指して「問題作」とすることもできるでしょうけど、佐藤さん自身があとがきで「これくらい馬鹿やれば悪評が立って売れるだろう」との意図をあらわにしている以上、これは「そういう風に設計された商品」でしかありません。愚痴の内容も本当にただの愚痴で、史上稀に見る超絶悪辣な愚痴無双とかそういう凄味があるわけでもありません。

 もっと単純に「金を払う商品として成り立たないような駄作を売りつけた上で読者に逆恨みする作者の下衆っぷり」という点に着目するにしても、「本作は駄作であるか」というところ多分の議論の余地があって、また足を引っ張ります。たしかにミステリやメタ小説として見るべきところがあるとは思いませんが、作中の「本編」部分がむしろ純文学的な文脈で書かれていることは、作者のその後歴を参照するまでもなく明らかです。そっち視点で見た時、本作は別に駄作と言えるような代物ではありません。良作とまでは言いがたいのかもですが、別に躍起になって批判するほどのものでもなく、こういうのはその辺にありふれているでしょう。起承転結があてちゃんとオチまでついた、まっとうでありふれた小説です。

 佐藤さんがその後純文学畑で活躍してるのをふまえると、ノベルス版出版当時の本作本編部分が「駄作」として受け取られたのは、なんや単なるカテゴリエラーやん、という実につまらない結論に落ち着いてしまう気がします。なんにしても、かつて大騒ぎされたという「問題作」にしてはあまりにもパンチが弱い印象でした。

 そんなことよりも印象に残ったのは、主人公がたびたび過剰に反発する、「自覚のない悪意」という概念です。言われてみれば、これは確かに日々の暮らしの中で折に触れては生じてくる感覚です。ただ、現に存在するその感覚を「その感覚」としてはっきり意識する機会は、ただ暮らしていて巡ってくるようなものではありません。確かに私たちの近くに存在するのに、それとして意識されたことのない概念、そういうものに言葉を与えて掬い取るのが小説家の仕事のひとつだと思いますし、佐藤さんはたしかにこの方面で目を見張る能力のある作家さんなのだと思います。