古典に見る探偵の挫折 - エラリイ・クイーン『九尾の猫』

九尾の猫 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-18)

 初クイーン。初クイーンでこれを読むのは珍しいのかもしれませんが、id:kaienさんのお勧めということで。

 NYに現れた「猫」と呼ばれる連続殺人犯。年齢も地位もばらばらな被害者には共通点が見あたらず、犯人の目的も全く不明……というわけで、ミッシングリンクの古典的傑作との評価が高いようです。

 現代の視点から見ると、ミッシングリンク自体が奇抜ということはありません。それでも、小説としてのお話の進め方、興味深い推理過程、そして最終的な真相まで含めて、色褪せることのない「良作」として満足できる作品です。


 興味深いのは、本作もまた「探偵の挫折」を描いた作品のひとつである点です。客観的確証のない主観的な確信だけで事件を解決した気になったり、犯罪者の内面を一方的に想像して動機を断定したり。こういった所業は現実の人間がやればまず非難されるべき行為ですが、推理小説に登場する探偵たちは往々にしてその枠を踏み越えます。彼らがその横暴を赦され、倫理的な謗りを受けずにいられるのは、作者に与えられた「名探偵」の役割の下、ミステリのコードに守られているためでしょう。

 古き推理小説の名手であったクイーンは、けれどこのコードに無批判ではいられなかったようです。コードに守られていることに無自覚な者は、やがてその保護の外に出た時に無防備な姿を晒し、自分自身の驕りや傲慢を思い知らされることになります。かつてお前がいたところでは「お約束」が通用したかもしれないが、ここでそれは通用しない。そう宣言されて青ざめる探偵の姿が、本作ではたしかに描かれています。

 コード批判という意味合いで「探偵の挫折」を書く作家といえば、最近だと米澤穂信さんがその代表なのかなと思います。探偵の驕りが招く、苦々しい青春の痛痒。これ自体は現代的な感覚なのかもしれませんが、問題意識としてはいわゆる後期クイーン問題とも重なるところがあります。はるか数十年も前から問題問題を先取りしていたわけで、これはやはり「さすがクイーン」としか言いようのないところです。