ナンセンス論理ジョークとしての『九マイルは遠すぎる』と、読者のミステリリテラシー

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

 もっともらしい理屈をいくつも並べて積み上げて、最初見えていた光景とは全く異なる結論を導いてしまう、というナンセンスジョークミステリーフジモリさんの書評などで上手いこと解説されている通り、実証性を無視した飛躍的な論理展開はアクロバティックで刺激的、それこそが本作の最大の魅力だと思います。

「ニッキィ、君は何を証明しようとしたんだっけね?」
「一連の推理が理にかなったものであっても、かならずしもそれが事実とは一致しないということさ」
「ほう?」
「こいつ、何がおかしいんだ?」彼はむっとして言ったが、やがて自分でも笑い出した。

 表題作『九マイルは遠すぎる』の上記ラストシーンが示しているのは、ある推理の「理」が通っていたとしても、他に無数に存在しうる他の仮説を否定したことには全くならないという当然の道理です。そして、探偵役であるニッキィの実証なき推理が"なぜか事実と一致してしまう"こと、それ自体が本作最大のジョークであるわけです。ミステリーというジャンルは本質的にそういう不合理な楽しみを有している、という視点を明確に提示してみせている点で、本作は批評的な皮肉を含んだ作品でもあるでしょう。*1

 たとえば、コナンくんが毎回殺人事件に遭遇するからといって、「江戸川コナンが現場にいた以上、これは事故や自殺ではなく殺人事件であるはずだ!」なんて推理を展開すると、これはギャグになっちゃいます。本作にも、これと似たユーモアが機能しています。ただ、よその感想を拾い読みしてみると、ミステリーの人の中にはこういうのを「合理的推理」とベタに認識している向きも散見されて、それはさすがにどうかなあと複雑に思うところでもあります。ミステリーのお約束として、実際は不合理な推理でもあえて合理的だと思って楽しんでおく、という伝統がありますが、この"あえて"が抜けてそのまんま事実として受けとめてしまう風潮が一般的になると、「ロジックを面白く描く」ことをを売りとしているはずのミステリーというジャンルの倫理が、なんだかよく分かんないものになってしまう気がするのです。

 たとえば、"現実にはありえない"科学的事象を楽しめるのがSF作品の醍醐味のひとつです。でも、読者がこれをそのまんま「現実の話」と受けとめてしまうと、作品鑑賞の態度は置いておくとしても現実社会の問題としてまずいことが生じるでしょう。ミステリー作品でも、これは同じです。このあたりで「ミステリリテラシー」みたいな言葉を持ち出して、ミステリー読者の論理に対する認識のあれこれを論じてみると面白い気がちょっとしましたが、明らかに優越感ゲームの地雷臭が漂い始めたので私は言い逃げで退散します。

*1:こういった皮肉な視点が全面に押し出されているのは第一作である表題作だけで、他は普通のミステリーの文脈に寄り添っているようですが