竜騎士07 - ゲームデザインが規定する物語 (『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿)


2010年夏コミで頒布された『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』が完売、再販予定なしということで、私の担当した原稿について主催のthen-dさんからweb公開依頼がありました。作品完結前に書いたものであり、今では私自身かなり考えの変わったところもあり、後々補足など必要になるかもしれませんが、ひとまず掲載の原稿をそのまま公開します。

1.序

「正解率1%」という宣伝文句は、『ひぐらしのなく頃に』(以下『ひぐらし』)の印象を強く決定づけました。この「推理せよ」と煽るようなキーワードを見たプレイヤーは、当然本作を「ロジカルな解明が可能な本格推理ゲーム」と認識します。けれど結果として、本作がその期待を裏切ったのは周知の通りです。『ひぐらし』の謎は論理的な一意解を導出できるものではとてもなく、プレイヤーを悩ませ続けてきた「不可解な現象」の多くも本物の超常現象でしかありませんでした。
 この結果をふまえ、竜騎士07氏の好むミステリー的要素は表層的な「装飾」でしかない、と述べるのは容易です。けれど本稿ではこれと逆の視点に立ち、竜騎士07氏の作品の推理ゲーム、あるいはアナログゲームとしての性質に注目します。タイトルに記した「ゲームデザイン」とはそのような文脈を意識したものであることを、特に断っておきます。

2.再度、推理ゲームとしての『ひぐらしのなく頃に

ひぐらし』の推理ゲーム的読解については、第7話『皆殺し編』の頃から「作品世界を支配する法則を推理せよ」との主張がなされはじめました。たとえば本作では各編で毎回異なる人物が凶行に走りますが、いずれも「他人を信用できなくなると、疑心暗鬼に陥って暴走する」パターン(ルールX)が共通しています。こういったパターンは、実は「作品世界のルール」として法則化されています。そして、繰り返す事象の観察結果からルールX、Y、Zを見出していくことが本作にとっての「推理」の主眼であり、その観点から見れば具体的な犯人やトリックを特定することなどは些事に過ぎない、とするのが「ルール推理」の発想です。
 後述するように、『ひぐらし』の「ルール推理」には実装レベルでいくつかの難点がありました。ただし、その発想自体は興味深く、本作の特徴である連作形式にもマッチしたシステムだったと考えます。
 ルールの機能を説明するため、もうひとつ例を挙げましょう。ヒロインの一人である北条沙都子には別居中の伯父がおり、彼は毎編一定の確率で沙都子の元に戻ってきます。この帰還イベントが発生すると沙都子は伯父に虐待されるようになり、放置するとハッピーエンドの条件が満たされなくなってしまいます。また、この派生イベントとして、沙都子の友人のランダムな誰かが彼女を救うための行動を開始します。友人は暴力的な手段をもって鉄平を排除しようとするのですが、その独断行動は前述の「ルールX」と組み合わさることで暴走し、結果的にバッドエンドへの引き金を自ら引くことになります。以上のカニズムや確率判定は、作中で実際に描写がある・ないに関わらず、毎回水面下で機能していると考えられます。
 こういったルールが、『ひぐらし』では全編に配置されています。作品世界のルールを見破り、分析することで、ハッピーエンドへの到達方法を模索する。それこそが『ひぐらし』の推理の主題だったという発想は、ゲームとして評価したい試みです。また、同じ時系列を何度も繰り返す本作のループ構造も、「ルール推理」にマッチしています。一回しか起こらなかった出来事は偶然だが、毎回起こるなら必然的な法則が隠れている可能性が高い、と推論していくスタイル自体は、きわめて合理的な思考ゲームとなりえます。
 ただし、実際に『ひぐらし』に実装された「ルール推理」には、問題が多々ありました。まずそもそも、「ルール推理」という特殊な発想をプレイヤーに提示していなかった点。問題の枠組みさえ正確に提示していれば、プレイヤーの方でも的確な受容の仕方があったはずです。けれど本作は、そのアナウンスに失敗してしまいました。
 もう一点は、厳密性の問題です。条件を変えて何度でも試行を繰り返し、帰納的に法則を導き出せるシミュレーションツールと違い、『ひぐらし』の物語は有限です。作品世界のメカニズムをいかにシステマティックに組み上げようとも、パズル的な厳密性に万全を期すのは土台不可能だったわけです。次善の策として、限られた試行回数の中で推理の蓋然性を高められるよう、ヒントを効率的に提示していく手際が求められるところでしたが、これも注意深く計算されていたとは言いがたいです。*1
 以上、二点の問題については次作『うみねこ』で一定の改善がなされているのですが、それに関しては後述することにしましょう。*2

3.物語を生成するブラックボックス

 ルールの枠組みが物語に対して与えた作用についても考えてみましょう。ここで、複数のルールを有機的に組み合わせた構造体こそが『ひぐらし』の作品世界そのものである、という視点を提示します。物語開始時点の初期配置が終われば、後は登場人物がルールに従って自動的に行動していく。登場人物はそれぞれ独自の行動原理を持っているけれど、悪意をもって設定されたルールのせいで、彼らはいつもバッドエンドへの道に足を踏み入れてしまう。いくつかのパターンが組み合わされば、滅多に見られない珍しいイベントが創発的に発生することもある、と。このような見方をすると、『ひぐらし』のルール群は一種の物語自動生成システムであり、ライフゲームのような物語シミュレータでもあると言えます。
 もちろん以上は全て仮想的な話です。竜騎士07氏が本当に「自動生成」的にシナリオを作っているはずもなく、恣意的な展開や後付けのルール追加などを多分に行っているのが本当のところでしょう。ただし、事実がどうであろうと「各編の背景には、物語を無数に生成しうるシステムが控えている」というイメージは作中で現に示されていて、それ自体が作品世界を眺める視点に影響を与えます。初期値と乱数を与えることで、ストーリーが自動的に生成されていく世界観。ルート分岐式のノベルゲームとは、何か別種のシステムを選択しているような[印象](「・」傍点)が、ここに表現されたわけです。
 最初の段階では、システムの中身は完全に隠蔽されていて、初期状態と結果だけが分かる「ブラックボックス」になっています。この箱が開け放たれ、"数々の不可解な事件は、ばらばらな行動原理が影響し合うことで偶然発生した事象だった"というパズル的なメカニズムが判明する時、それを理解する「光景」*3は、ミステリーの真相開示がもたらす視点の解放、カタルシスの表現そのものに思われます。
 『ひぐらし』に関して、最後に一点。作品世界を規定するルールという仕組みは、物語終盤で恐るべき用途に使われます。「仲間を信じれば奇跡が起きる」というルールを設定し、物理法則をねじ曲げるほどの強制力を持たせることで、作品テーマを無条件に肯定したのです。
 物語のテーマとは常に恣意的なものですが、それを作中さまざまな事象と擦り合わせることで、なんとか納得に値するものに近づけていくのが表現というものです。それを「世界のルール」としてあっさり全肯定し、批判を一掃してしまう無邪気さ、厚顔さは、余人にはなかなか真似できないことでしょう。無批判な相手を狙って自説を扇情的にアピールする演出としては非常に効果的ですし、作品世界を恣意的に規定して自分好みの物語に落とし込むやり口としては、この上なく悪辣です。
 作品世界をひとつのゲームとみなした場合も、この状況はやはり悪手です。様々なルールが組み合わさって、せっかく攻略しがいのあるゲームが構築されていたのに、途中で全ての障害を無力化する「必勝法」が確立してしまうため、後はひたすらワンパターンな展開陥ってしまう。『ひぐらし』クライマックスの[はり](傍点「・」)のなさの原因は、結局ここに帰結します。あるいはゲームとしての『ひぐらし』は「必勝法」を獲得した時点でクリアを迎えており、その後の冒険活劇は長い長いエンディングムービーだった、くらいに理解しておくのが賢明だったのかもしれません。

4.『うみねこのなく頃に』 - ミステリーの換骨奪胎

 2008年夏に第1話が発表された時点で、『うみねこのなく頃に』(以下『うみねこ』)は少々地味な推理ゲームでした。孤島の館という王道的なクローズドサークルで、不可解な連続殺人が発生する。ある者は人間がトリックを用いただけだと言い、ある者は魔女の仕業だと主張する。主人公である右代宮戦人(とプレイヤー)は「人間犯人説」の側に立ち、事件が"現実的方法によって説明可能"であることを証明するために推理を行う。と、話は実に単純でした。
 作品構成は『ひぐらし』と同じく同時系列を一話ごとに反復するスタイルらしく、第1話ラストは順当に全滅エンドで終わります。「魔女」とはこの世界を支配するルールの象徴を擬人化したものである、とまさに「ルール推理」を示唆する発言もなされ、殺人の儀式や碑文の暗号、当主継承条件など、『ひぐらし』以上に明確なルールが早期から次々示されました。おおむね『ひぐらし』のスタイルを踏襲しつつも、より完成度の高い推理ゲームを指向した作品だった、当時はそう読み取ることができたと思います。
 ところが同年冬に発表された第2話が、とんだちゃぶ台返しでした。なにせ、存在を否定すべき「魔女」がいきなり本編に現れ、魔法バトルなどの超展開が堂々と描写され始めたのです。「魔女は実在しないはずだ」という大前提がいきなり崩壊し、ミステリーの最も忌み嫌う「虚偽の描写」が正面から突きつけられます。ある種のプレイヤーが期待していた「堅実な推理ゲーム」の可能性は、ここで完膚無きまでにへし折られたのです。
 ただし、推理指向のプレイヤーにとってこそ重要となる要素も、この第2話の中で示されました。魔女自身が宣言した作中ルール、「赤色で表示したテキストはゲーム世界中の真実である」というルールがそれです。魔女自身によって「真実である」と保障された「赤字」は、地の文すら信用できないこの作品にあって最も重要な推理となります。本作の推理ゲームとしての構想が、ここでようやくおぼろげに見えてきます。
 通常の推理作品は、信用できる「地の文」の描写を大量に積み重ねていくことで、少しずつ推理の手掛かりを提示していきます。ただし、自然言語で書かれた大量のテキストの中から必要な情報を抽象するのは、なかなか困難な仕事です。膨大な情報が茫洋と広がっているがゆえに、予測しえない曖昧さをも孕んでしまう可能性があります。
 一方の『うみねこ』は、早い段階で「地の文」の信頼性を放棄してしまいました。そうすることで、問題の焦点は「赤字」周辺に収束します。「赤字」は基本的に命題形式で記述されているため、問題はかなりロジカルな形式に変わります。*4。地の文をベースにした一般的な推理作品とはきわめて趣の異なる「論理的な言葉遊び」に近いゲームスタイルが、ここに立ち現れてきます。
 またこれ以降、「赤字」ルールをベースとする形で、追加のルールや攻略テクニックがひとつひとつに示されていきます。さらに、人間が魔女に赤字を復唱要求し、魔女がそれを出し渋るなどの「駆け引き」が生じるに及んで、この推理合戦は「ルール化されたテーブルトークゲーム」の様相を呈してきます(以下、このゲームを便宜的に「魔女のゲーム」と呼称)。この「魔女のゲーム」は作中で何度もチェスに喩えられますが、魔女が「ゲームマスター」となってゲーム盤を構築し、プレイヤーがそれに挑むという仕組みはTRPGの構図にも似ています。
 こうしてルールを体系化していくことで、本作は当初想定されていた推理ゲームのイメージとは全く異なるシステムを顕わにしました。にも関わらず「論理的推論」と「謎の解明のカタルシス」の要素を維持している点は重要で、ミステリーは換骨奪胎によってここまでシンプルな形に還元できる、ということを示しています。
 なお、戦人の最初の目的は「魔女の実在を否定すること」=「魔女の犯行を否定すること」で、論法としてはむしろ弁護人に近いと言えます。物語が進行すると立場も変わり、彼自身が魔女の側になって参戦するようなパターンも出てくるため、「魔女のゲーム」の盤面を見る限り、構図はどんどん複雑化していきます。ただし、プレイヤーは「魔女のゲーム」に直接介入するわけではありませんし、そのルールに縛られているわけでもありません。「登場人物が作中ゲームで戦う光景」を観察したプレイヤーが、得られた情報を元にして作品世界の謎を推理する、という構図に整理すれば、問題は比較的シンプルな形に落ち着きます。*5

5.大規模推理ゲームとしての進展

ひぐらし』の主要な批判点だった厳密性の問題については、『うみねこ』から一応の回答を見いだせます。まず前提として、「解を一意的に導出できる」ようなモデルは明確に放棄されたと見てよさそうです。そもそも当然の話、「解が一意的に導出できる」ような出題は、連作形式の作品にとってきわめて不都合です。プレイヤーがあっさり解答を出しネタを割ってしまう事態を避けるためには、情報が不十分な状態を保たなければなりません。一冊の中に「出題編」と「問題編」があり、読者への挑戦状が挟まっているような本格推理小説とは土台が違うのです。
 情報が不十分であるという条件下でプレイヤーにできるのは「現在得ている情報に沿って可能性をできる限り狭めた上で、想定しうる可能性をひとつずつ検討する」ことでしょう。読者一人で挑戦するのが普通の推理小説なら、こんな手間のかかる出題は非現実的です。ただし『うみねこ』は数万人単位のプレイヤーがWebのいたるところで議論するスタイルを前提としており、人海戦術によるかなり網羅的な議論が可能となってくるのです。現に、作中最大の謎のひとつである「碑文の暗号」は、解答とおぼしき説が既にほぼ特定されています。その解法は一人ではとてもひねり出せないものであり、このスタイルの推理法の有効性はある程度示されたと言えます。
 ミステリー化内における「推理」という用語は、辞書的なそれとはかなり意味が異なります。ですから、『うみねこ』のようなスタイルを指して「我々はそれを推理と呼ばない、せいぜいが作品考察に過ぎない」と指摘することはできるかもしれません。もちろん、語をどのように運用するかは些細な問題でしょう。必要なのは、「本作は[このような](傍点「・」)ゲームスタイルを選択した」という理解です。
「何を推理するべきか推理せよ」という問題の枠組みをプレイヤーに隠蔽していた点が、『ひぐらし』のもうひとつの失敗でした。一方の『うみねこ』は、作品発表段階で「推理は可能か、不可能か」という主題を提示しています。また『ひぐらし』の前例も記憶に新しいため、今回はより多くのプレイヤーが問題の枠組みを認識できていたと考えられます。この点で、『うみねこ』は前作よりはるかに進歩したと言えるでしょう。
 ただし、結末がどちらに傾くかは竜騎士07氏の判断ひとつにかかっているため、結局プレイヤーは彼の手の内で弄ばれているという指摘もできます。ゲームの出題に対して、ちゃんと現実的な解答が提示されれば問題はありません。ですが、もし竜騎士07氏のきまぐれで本当にトンデモな結末に終わってしまえば、真剣に推理に挑んでいたプレイヤーが馬鹿を見てしまいます。より良きプレイヤーを裏切るような落ちのつけ方は、竜騎士07氏にとっても最悪の選択です。けれど、問題設定として「推理は可能か、不可能か」という大枠を据えてしまった以上、彼自身が「推理は可能」と保障を与えるわけにはいいかないのです*6。また「魔女のゲーム」の赤字の正当性を保障しているのは魔女自身であり、その気になればいつでも人間を裏切れるという点で、ここにも同様の構図が見て取れます。
 以上のように、作者とプレイヤーの関係はいまだに歪な非対称をなしています。これをゲーム自体の設計ミス……と指摘することもできるのですが、後に提示されるテーマをふまえると、実はこの構図に必然性を見出すこともできます。

6.推理ゲームの第一原則

うみねこ』の前半4話は、「魔女のゲーム」の導入として、いわばチュートリアル的な構成となっていました。そして第5話以降は応用編となり、エキスパンション的なルールが加わります。魔女側視点と人間側視点の交代、特殊ルール「ノックスの十戒」の追加などで「魔女のゲーム」はますますアナログゲームじみてきます。
「魔女のゲーム」をアナログゲームの文脈で語る時、重要なのは出題者である「魔女」が「ゲームマスター」(以下GMと表記)として扱われている点です。プレイヤー同士が対等の条件で最善手を尽くすチェスなどと違い、GMを有するゲームにおいて、GMの目的は必ずしも「プレイヤーに勝利すること」ではありません。「プレイを盛り上げ、プレイヤーに適度な試練を与え、そうすべき時は上手い具合に負けること」こそが、ホストであるGMの役割です。
「魔女の目的は戦人を敗北させることではなく、彼を導いて勝利=真相に辿り着かせることだった」という内情が第5話で明かされますが、これもまたGMの役割そのものです。さらに、この構図は推理小説の作者と読者の関係としても語られます。同様の構図が竜騎士07氏とプレイヤーの関係に見出せるのは、言うまでもないことでしょう。
 第5話終盤の推理問答において「出題者が解けると保障していない問題」が仮定され、そんな問題をまともに解こうとする者ははたしているのか、という疑問が提示されます。保障なき推理小説とは、まさしく『うみねこ』そのものです。そして、「解ける保障」がないという性質は、「推理は可能か、不可能か」という問いの導入で成立したものでした。いびつで不可解だった本作の問題設定は、ここでようやく意義を持ちます。
「解ける保障」がなければゲームは成立しない。そして「ノックスの十戒」などのお約束は、「解ける保証」を読者に担保するためにある。作中で述べられるこれらの指摘は的を射ています。逆を言えば、作者と読者の間に信頼が築かれてさえいれば、制度的な「保障」はもはや不要となるはずです。そうなれば、十戒や二十則、あるいは地の文の信頼性さえも、決して必須ではなくなります。理屈の上では、『うみねこ』のプレイヤーは、「保障」ではなく「信頼」を動機としてゲームに挑んでいたのだ、という主張が成り立つでしょう。作品の文脈に従うなら、無保証状態で成立する相互信頼は「愛」という用語に換言できます。
 少々滑稽な話ですが、『うみねこ』という保障なきゲームを通すことで、プレイヤーは竜騎士07氏に対する「愛」を試されていた、という構図が導けはしないでしょうか。そしてまた癪なことに、虚偽の記述やファンタジー展開で揺さぶりをかけられてもなお相当数のプレイヤーが推理を継続した、という現実も否定できません。どうにも釈然としない話ではありますが、本作がゲームとして成立するには作家とプレイヤーの相互関係が必要であり、それは現にある程度*7満たされた、という事実は心に留めておくべきかもしれません。そしてこの結果は、やはり「魔女のゲーム」を巡る物語の展開とも綺麗に符合するものです。

7.ゲームにはじまりゲームに還る

 竜騎士07氏の「語り」は、終盤までテーマを隠蔽する傾向を持ちます。『ひぐらし』終盤でいきなり「友情」のテーマが打ち出されたのは、その悪例の最たるものです。けれど『うみねこ』で話数が進行するごとに物語の構図が劇的に転換していく様は、ゲームシステムの段階的な開示と相まって強いカタルシスを生んでいます。竜騎士07氏を特徴付ける最大の要素のひとつとして、この「語り」は評価できるでしょう。
 とはいえ、そのために作品の主要なテーマをなかなか議論の俎上に上げられないのは悩ましいところです。おそらく本作が最後の肝に据えるであろう「愛」というテーマに関しても、現状では言葉が熱烈に叫ばれているだけで、具体的な全貌は不明です。無邪気な「展開予想」を繰り広げる愚を控えるため、そろそろ話の締めに入りたいと思いますが、それにしても気に留めておきたいことがあります。
 恣意的で強力なルール補正により「皆が勝者」の世界を維持できた『ひぐらし』と異なり、『うみねこ』には勝者と敗者を生じさせる明確なルールが多々存在しています。当主の継承権しかり、黄金郷の定員しかり。『うみねこ』の作品世界は、皆がお互い愛し合ってハッピーエンド、という単純な落としどころには持って行きがたい「ルール」に規定されています。『ひぐらし』と『うみねこ』の作品世界モデルが決定的に異なるのはこの点で、もしこの4年間の竜騎士07氏にテーマ的な進歩があったとすれば、その変化はこのポイントに凝縮して現れてくるはずです。
「愛」を無条件の奇跡の力と定義し直し、あらゆる「ルール」を無効化して物語を解決に導く……そういう展開は『ひぐらし』の「友情」必勝法の再演でしかなく、いかにも面白くありません。そもそもの前提として、本作はゲームとしての枠組みを持っていました。その枠組みは「枠組みを規定せよ」という自己言及的なものでしたが、推理小説における「信頼」等の議論を経て、確かなものに収束しつつあります。問題が作品世界内のルールによって規定されているのであれば、その解決もゲームシステムに則った作法で提示するのが流儀でしょう。
 作品は、作品自身の内部に閉じていてはならないと言われます。ですが、ゲームとしての「枠」をもって始まったこの作品は、やはりゲームとして作品自体に帰結することが許されるはずですし、むしろそうなるのがひとつの筋と思われます。[特定のパラメータの組み合わせ](傍点「・」)がパズル的な過程を経て問題を解決に導けるのであれば、それこそが最もスマートな結論です。ルールや解答文の中にお題目をそのまま埋め込むのではなく、ゲームを解決に導く[メカニズム](傍点「・」)によって物語のテーマを表現することに成功すれば、その時こそ「本作はゲームの枠を持った物語」であることの意義を全うすることができるのでしょう。

*1:ただし、「PARADOX」で『ひぐらし』の詳細な考察を行っていたKEIYA氏のように、論考と検証を積み重ねることで有意な推論を導き、いくつかの真相に肉薄していた論者の例も存在します。

*2:なお、そもそも「ルール推理」という発想自体が後付けだったために、数々の問題が発生したのではないか、という指摘は当然ありえます。少なくとも、『ひぐらし』構想段階の竜騎士07氏は無名であったため、数万人のプレイヤーを対象としたようなゲームは想定できなかったでしょう。

*3:この「光景」は、突如として群像劇的な多視点を導入して「楽屋裏」の仕組みを見せつけた『罪滅し編』と、ルールの概念を提示して作品世界のメカニズムを分析した『皆殺し編』前半で、特に顕著だったと考えます。

*4:もちろん、自然言語である以上は定義や時制条件などの曖昧さを備えてはおり、それが問題になってくるシーンもあります。それでも、「彼はこの部屋で殺された」などの断定的な情報を検証なしに得られるのは、常に予想外の事態を想定する推理作品にとってこの上なく有効なヒントになります。

*5:もちろん、「自分は地の文の信頼できる普通の推理ゲームがやりたかった」という向きには、何の慰めにもならないのですが。

*6:「作者が裏切る可能性」は、原理的にはどんなミステリー作品にも存在します。ですが、あえてそれをやろうとする作家はそうそう存在しないため、読者はいちいち心配しません。ところが竜騎士07氏に関しては、『ひぐらし』の前例があるため、普通なら問題にされないはずの可能性が現実味を帯びてしまうのです。

*7:もちろん、そこまでついて来れなかったプレイヤーも、やはり相当数存在します。氏のこころみは、結局のところこういったプレイヤーを"振り分ける"作用がありました。「プレイヤーの愛を試す」のにはこういった側面もあり、かなり意地の悪いやり口だとは思います。