文脈を支配した探偵が真相を創り出す - 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日(上)』

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

エセスネインピナー来てるよ〜

※ええと、このシリーズの感想は二年くらい前に書いてたものでして、なんとなく今までずっとアップしそびれてたのですが、いいかげん放置しすぎたのでメモ整理ついでにアップします。文章がやや古いですがご容赦を。

 作中でもろに言及があるので今更ですが、「探偵は論理的思考で事件の真相を導いているのではなく、物語の文脈を支配することで真相を創り出しているのだ」っというメカニズムを自覚的に、むしろ露悪的なまでに徹底しているのが大変好みな作品です。推理行為自体をネタ扱いするヘンテコな手つきはデビュー作の頃からありましたけど、今回「文脈による推理」という要点を明示することで、「何をしようとしているか」がはっきりしたのかなと思います。

 清涼院流水さんのやらかした「キャラクター小説としての探偵が繰り出す必殺技推理」の流れがあるせいで、舞城さんの小説もその亜種として語られがちなところがあります。でも流水さんはガジェットとしての「探偵」を奇形的に好き放題して遊ぶところに主眼があるのに対し、どうも舞城さんは探偵行為の文脈的メカニズムの方に焦点が向いているようでして、一緒くたにするのはやっぱりまずいんだろうなと思います。

 本書では、タイムパラドックスを扱う前半でも、パインハウスでの大量(?)探偵劇を扱う後半でも、一貫して「文脈」の話をしています。現実は文脈によって後付で生まれてくるとか、自分の前で起こる全ての出来事には意味があるなんてことまで言い出すので、主張としてはよしもとばななさんんのスピリチュアル観と同根のものです。ただしよしもとさんの小説が本人の現実に対する世界観をそのまま作品に反映しているっぽいのに対し、舞城さんはあくまでフィクションを描き出すメカニズムとして「文脈」を駆使している*1ので、その感じ方はかなり異なってきますね。

 現実に文脈を見いだし、現実が文脈に支配されているかのような前提で(大抵はその前提に無自覚に)唱えられる主張は困ったものなのですが、逆にフィクションの場合は作家が「文脈」を好きなように支配できます。その恣意性をうまく隠して自然に描ければ作品の面白さに貢献するのですが、逆に無自覚に扱って残念なことになるケースもしばしば。いっぽう本作の場合、「文脈」の存在自体が明示されているので、"文脈の存在を忘れるほど自然に描き出された見事な作品"ともまた違った趣があります。さすがに現時点では「作者が文脈を支配している」とまでは言っていませんし、その結論自体には何の面白みもないんですが、後々そこにどんな意味を持たせてくれるのかな、っという期待を持ちつつ読み進めてみようと思います。

*1:だから逆に、現実には「文脈」の力なんて一切存在しないことにも自覚的にならざるをえないはずです。