『ちーちゃんは悠久の向こう』日日日

ちーちゃんは悠久の向こう (新風舎文庫)
ふむー。
これも駄目人間系のお話ですね。「働かない」とか「引きこもり」とかいう意味での「駄目」じゃなくて、「世界とか自分のことなんて、もうどうでもいいんです」みたいな方向性の駄目人間。西尾維新さんを『屑人間 悶絶編』、大槻ケンヂさんを『駄目人間 逆ギレ編』、乙一さんを『駄目人間 再生編』とするなら、日日日さんは『駄目人間 駄目人間編』という感じです。ひたすら駄目です。「僕は駄目で駄目だけど駄目なりに駄目人間やってるのでもう駄目ってことで許してください」みたいな。いいですね、こういう諦めちゃった人の内情吐露。この手の連中が哀川潤さんあたりにお説教されるシーンとか、想像するだけで本当にわくわくして涙が出そうになります*1。またろくでもないことを言ってしまった気がしますけど気にせずに……。
解説の久美沙織さんが言うとおり、言葉遣いにはたしかに多少古くさいところもあります。でも文体自体は西尾維新さんを大人しくした感じという印象で、いまどきの一人称の範疇ですね。作者の年齢を考えれば文句なくに「巧く」て「凄い」し、それを無視しても商用として十分通用する作品です。
ただ、やっぱり悪い意味で若い……というより「幼い」かな、という印象を持つ部分はありました。それは小説としてどうこうというよりも、たとえば学歴社会や体育会系に対して(主人公ではなく)作者本人の偏った敵意が感じられたりするところについてです。基本は世を達観したような主人公の語り口なのに、そこにだけ「未成年の主張」さながらの呪詛のようなものの見方が混じってくるのはちょっと違和を感じますね。もちろんこの辺りは日日日さんが成長すれば放っておいても勝手に改善される問題ですから、あまり気にする必要もなさそうですけど。
森博嗣本』の森博嗣さんと西尾維新さんの対談の中で、お二人は「小説が書きたかったら、アルバイトや社会経験なんてどうでもいいからとにかく沢山小説を書くべきだ」みたいな耳障りのいいことを言っていました。でもこれは十分な社会力を持つこの人たちだからこそ言えることであって、*2日日日さんはやっぱり大学くらいには行っておいた方がいい気がます。(とこの年の私が言っても何の説得力もないわけですけど……。)

*1:本作にそんなシーンはありません。念のため。

*2:たとえば、森博嗣さんは当然として、西尾維新さんの文章からもここで言うところの「幼さ」や「偏見」を感じることはありません