『新興宗教オモイデ教』大槻ケンヂ

新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

「最近、ラジオや電波を使って俺を誹謗中傷するものがいる! 俺に『早く狂え』と脳髄に直接毒電波を送る者がいる! 誰だぁ!? 名乗り出ろお!」

毒電波ー。
筋肉少女帯の曲の中では『蜘蛛の糸』がいちばん近いです。ノートに痩せた小猫の絵を描く理由は友達がいないからなんですね。
これが初長編ということですけど、たしかにプロットとかストーリーとかそんなものは知ったことじゃないという作りになってますし、必要のない作品なのだと思います。これだけぐちゃぐちゃとやっておいて、ちゃんと青春小説として成り立っているあたりが実に驚異的です。誘流メグマ祈呪術。
滝本竜彦さんとの関連を言う人が多いみたいですけど、大槻さんの作品はむしろ西尾維新さんに近い気がします。友達同士で楽しく仲良く日々を過ごしている「一般人」を強く嫌悪し、自分自身やそれに近い考え方の人だけは孤高で崇高な存在だと信じている主人公のものの考え方は、戯言シリーズ語り部であるいえもんさん(仮名)と実によく似ています。いえもんさんは「一般人」への劣等感と優越感がまぜこぜになった人ですけど、くだらない「一般人」が馴れ合うさまを軽蔑し、「ぼく」を特別視したがる姿勢が両者に共通しています。ついでに「きみ」と「ぼく」の関係の方が世の中の行く末よりも重要だと考える、いわゆるセカイ系とも同じ構造です。
「あいつらの仲はうわべだけの付き合いで本当の友情なんかではないのだ。都合のいいときには酷い方法で裏切るつもりなんだろう。欺瞞だ。あいつらと違ってぼくはそういう真実をとっくに知ってるんだよ。ぼくはそういう欺瞞を許せないから、友達なんて作らないのだ。友達を作らないぼくはあいつらより優れた存在なのだ。あ、でもきみも友達少ないからぼくの仲間に違いない。きみだって本当はあいつらのことを軽蔑してるんだろう? そうだろ?」とこういった按配です。
これってつまり「ぼく*1」は単純に人付き合いが苦手で、その逆恨みとして友達の多い人を「一般人」として軽蔑し自分を正当化しているに過ぎません。「ぼく」に中途半端な知識があったせいで、色々と理屈をこね回して必死に世を拗ねようとしてますけど、それらは結局「友達がいなくて寂しい」みたいな格好悪い自分を隠したいだけなのです。もちろん「ぼく」の「友達なんて云々」という考え方が全くの見当違いというわけじゃありませんし、「ぼく」のものの見方が人より鋭いということもあるかもしれません。ただここで肝心なのは、根本的なところでそれら全ての理屈が「恨み言」から出発しているということです。
面白いのは、「ぼく」自身、心の底では自分のやっていることがただの「逆恨み」だと薄々感づいてる点です。(特にいのすけさんの場合、そのあたりのことを西尾さん自身が自覚的に描いていると思われます) もしもこれが素で「愚かな一般人どもめ」という書かれ方をしていたならいわゆる「イタい小説」で終わってしまうんでしょうけど、この点に疑問を挟む形で書かれたこれらの作品はむしろ読者に対する告発という意味すら持ってきます。*2
小学校を上がってある程度物心がついた頃にエヴァンゲリオンブギーポップなんかに触れちゃうと、そういうのを見たことのないクラスメートに比べて自分の方が賢くなった気がするものです。そうなると「自分のこの考えは正しくて優れていて、それの分からない一般人は馬鹿で無能なのだ(ということにしておこう)」みたいな思考に陥ってしまいがちですし、そういう感覚を引きずったまま成長した人も多いでしょう。(そして人前で「SMAPなんか聴いてる奴って本当の音楽を知らないんだよね」とか「きみだってまさか家族なんて信用してないだろ?」みたいなことをついつい口走ってしまい、あとで後悔するのです) このへんの事象に心当たりがある人にとって、この手の作品を読むのは自分自身の痛々しさを見せつけられるようなものです。告発です。それが過去の過ちにしろ今も続いていることにしろ、とにかくやるせない気分にさせられることに変わりはありません。つまり、別の意味で痛い作品ではあるわけですけど。

*1:さっきからぼくぼく言ってますけど特定のキャラクターは意識してません。一般論です。

*2:ここから「ぼくって孤独だったけど、やっぱり友達っていいよね」という方向に持っていくのが乙一さんで、逆に自分が優れているという考えに全く疑問を持たないまま大人になってしまうのが村上春樹さんの『国境の西、太陽の南』です