『ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』ネタばれ 「ご都合主義」というシステム

祭囃し編」をプレイすれば明らかですけれど、ひぐらしの世界はご都合主義によってお話の展開が大きく左右されています。ただしこのご都合主義には確固としたルールがあって、「人を信じれば物語は都合のよい方向に進む」「人を信じなければ物語は都合の悪い方向に進む」というものです。「祭囃し編」のスタッフルームでは「システム化された奇跡」という言い方がされてましたけど、同じ意味で「システム化されたご都合主義」という言い方もできるでしょう。「条件が満たされるとご都合主義が発動する」という表現をするとちょっとメタなSFギミックっぽく見えなくもないです。(参考 http://ab-3.net/2006/08/higurasi8.html)

注意しないといけないのは、このご都合主義は何も「祭囃し編」に限った話ではなく、「鬼隠し編」の時点から一貫してずっと影響してきたという点です。特に「罪滅し編」が分かりやすい例ですけれど、あのお話ではレナさんが仲間を信頼しきれていなかったがために、偶然と呼ぶにはあまりのも出来すぎた幾つもの誤解が積み重なって惨劇の舞台が整えられます。魅音さんが死体の隠されたゴミ山の探検を偶然提案したり、死体を埋めた裏山が偶然伐採の対象になってしたりといった偶然は、まさに「喜劇」と呼ぶに相応しいご都合主義的展開です。「罪滅し編」は幾つもの視点から俯瞰的に事件の成り行きが説明されるのでその喜劇性が分かりやすいんですけれど、一人称視点の他編でも同じような偶然の積み重ねによる勘違いが起こっています。一言説明すれば誤解が解けてルールXを解消できる機会は幾つもあったのに、なぜか「タイミング悪く」一度もその説明がされないのです。

主人公にとって都合の悪い偶然は、主人公にとって都合のよい偶然と比べてほとんど気になりません。だから結果として「祭囃し編」でのご都合主義的展開だけが目に付いてしまうわけですけれど、それが「鬼隠し編」の時点からずっと貫かれてきた方針だったと考えれば少し見方が変わるかもしれません。まあ教訓的な物語ならこういったご都合主義はたいがい採用されているわけですけれど、「皆殺し編」あたりからは竜騎士07さん自身がこのことに自覚的になったように見受けられます。「システム化された奇跡」というのは、たしかに言いえて妙な表現だと思います。

とはいえ、こういう風な説明が可能だからといって、それが納得できる形でプレイヤーの心に届かなければ意味がありません。今回の「祭囃し編」については、多くのプレイヤーが「ご都合主義が過ぎるんじゃないか?」という「違和感」を覚えています。そういった不要な摩擦を与えて作品への没入を阻害してしまっている時点で、今回のような趣向はやはり(少なくともそういった要素が「引っかかってしまった」人にとって)「失敗だった」と言わざるをえないでしょう。同じことは赤坂さんの関連の過剰演出や部活メンバーの異様な強さにも言えますけれど、こういった「違和感」は竜騎士07さんの作品に少なからず見られるもので、その不用意さが彼の最大の弱点なのではないかなと思っています。