『ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』ネタばれ「一発の弾丸」について

id:simulaさんのこの辺をまず参考として。


「ひぐらしのなく頃に解 祭囃し編」 −道徳的形而上学− コメント欄

# genesis 『私も,「鷹野三四の物語」を好ましく感じたくちです。第三部も中盤までは人智を通じての戦いだったものが,終盤で放たれた「一発の弾丸」が舞台を台無しにしてしまった感があります。「バベルの塔」の逸話を引いたのなら,最後は人が持つ〈言葉〉の力によって幕を降ろして欲しかった――と口惜しく思うところです。』

この「一発の弾丸」についてですが、逆の風に捉えました。番犬が登場してカッコウが発動された時点で鷹野さんは実質敗北していたわけですが、羽入さんは勝利が確定したのにわざわざ鷹野さんの前に現れて銃を向けられました。作中で羽入さん自身が言っている通り、これは神である彼女が舞台から退場し、「罪を背負って生贄となる」ための自殺行動です。そしてここで、「誰が生贄/敗者になることも臨まない」古手桜花の末裔である梨花ちゃんの手によって銃弾が取り除かれるという奇跡が起きるわけです。

つまり、このシーンの構図は「羽入を殺したい鷹野VS自殺したい羽入」ではなく「自殺したい羽入VS自殺させたくない梨花」と捉えらることができます。また、奇跡を起こしたのは神である羽入さんではなく人である梨花ちゃんです。昭和58年の6月を越えてループの記憶が無用のものとなると、羽入さんの神としての特権はなくなり人と変わらない身となります。この見方をすると、ラストシーンで梨花ちゃんの起こした奇跡は「神」だった羽入さんを「人」として自分たちと同じ舞台に受け入れるためのものだったという風に考えられます。

まあ、この手の理屈は読者に伝わっていないと意味をなさないので、後から考える必要がある時点で表現としては失敗しているわけですけれど、こう捉えるとしっくりするかなと思ったので一応。