『九十九十九』

九十九十九 (講談社文庫)

ハァレルゥヤ! JDCトリビュート……の名を借りて、もうぐっちゃぐちゃやってくれてます。この原作の無視っぷりと比べれば、『探偵儀式』は全然大人しかったんだなあと。『探偵儀式』は原作とのイメージギャップを巧みに利用した表現がおかしさのキモなんですけど、本書はそもそもはじめから完全に別物というか、原作を話のネタとしてしか扱ってない感じではありますね。

作中で九十九十九さんが繰り広げる推理からは、ジャンルのお約束として形式化してしまった「推理小説的推理」をからかうような視点が存在します。「推理小説」というジャンルでは実証性を考慮しない仮説でも受け入れられるんだからと、あからさまに実証性を無視した推理をやってしまったというか。根も葉もなく言えば、探偵がそうだと言ってるんだからとにかく正しいんだよという態度です。

作中で、九十九十九さんはどこから持ってきたとも知れないこじ付けの連続によって出鱈目な推理を繰り広げまくります。でも、どんな偶然と牽強付会の連続に頼った推理でも、とりあえず方法と結果が一本の筋道として説明できさえすれば、作者はその仮説を「真相」として指定できます。「他にも可能性があるんじゃないか」とダメ出し*1しても、作者が「そう」だと決めたら「そう」なってしまうのです。

多くの推理作品には、作者と探偵の共犯関係とでも呼ぶべき論理の飛躍が確かにあって、これは合理性を重んじる推理作品にとって致命的なことです。この辺の問題はおそらく過去に何度も指摘されたんだろうと思いますし、最近私の目に付いたところだと笠井翔さんも似たようなことを言ってます

それでも、当面のところ推理小説というジャンルではこの手の問題がお約束として通用しているらしい気配はあります。解答の一意性が明らかに示されていなかったり、探偵が解答に至った経緯がさっぱり分からないような作品でも、殊更その点を指摘する声はあまり聞きません。舞城さんの書くメタ探偵は、その辺の雰囲気を踏まえたキャラクターだったのかなあと思いました。

*1:犯人「し、証拠はあるのか!」みたいな感じで、理屈としては正当な反論も物語的に無視されてしまいます。