『秘曲 笑傲江湖(三) 魔境の美姫』

秘曲 笑傲江湖〈3〉魔教の美姫 (徳間文庫)

 もう、令孤冲さんがかわいそうでかわいそうで……。

 本作の主人公の令孤冲さんは、任侠武林の世界の豪快さを体現したような英雄的キャラクターです。性格は豪放磊落で、強きを挫き弱きを助け、何よりも酒を好みます。恥知らずな生を得るくらいなら躊躇なく討ち死にを選ぶ人ですが、さもなくば舌先三寸でその場を凌ぐ気持ちのよい悪知恵も働く人です。少年漫画的キャラクターと表現しても、何ら問題はないでしょう。

 ただ、本人こそういう性格なんですけれど、周囲の状況は彼を単なる「少年漫画的な陽性のヒーロー」に留めておいてくれません。武林に渦巻く欲望や陰謀は、彼をどんどん逆境に追いやっていきます。最初のうち、師匠に怒られて山奥に謹慎させられた、思い人に嫌われたといった状況はまだ微笑ましいものでした。けれど二巻の後半あたりから、雲行きはどんどん怪しくなっていきます。

 彼は秘伝書を盗んだ濡れ衣を着せられ、敵と通じた裏切り者と疑われ、更にはほとんど不治と思われるような致命的内傷まで抱えてしまいます。濡れ衣で正派から追いやられるというのは、少年漫画でもたまに見かける状況ではありましょう。でも、致命的内傷によって内力を失いほとんどまともに戦えなくなるという状況は、少年漫画的な文脈ではなかなかないことだと思います。

 今巻ではこの内傷を治すために色々な手が試みられるんですけれど、結局どうにも治らずに終わっています。ほんの短期間ならともかく、既に一冊まるまるこの病のせいでまともに戦えない状況が続いているわけで、ここまで来ると本作品はまるで難病ものの一種にも思えてきます。まあ文脈的にそのうち治りはするんでしょうけれど、それにしてももうかなり長く引っ張ってます。

 上手いなあと思うのは、彼が致命傷を得るのと前後して、武林の最高峰の秘技「独孤九剣」を身につけていたことです。半死半生で身体もまともに動かせない状態の令孤冲さんですが、それでもこの「独孤九剣」の的確無比な「技」のおかげで、急場では他者を圧倒する強さを見せつけることができています。

「技」だけでもこの強さなんだから、と思います。武術の半分である「内力」を失って「技」だけで戦っていてもこれだけ強いんだから、じゃあ内傷が快復して「内力」を取り戻したとき、彼は一体どうなってしまうのでしょう? この辺りのことは文中では一言も触れられてはいないんですけれど、それでも読んでる方としては想像を膨らませて、期待をせずにはいられません。この辺の心の動きは、金庸さんのまさに手の内であるのかもしれません。豪快な作風に見えて実はこういうところで計算高くて、本当に上手くやるなあと思います。