私の『うみねこのなく頃に』との戦い方、および第1話で××説に思い当たった道筋 -つづき

 少なくとも「うみねこ作中の殺人事件は自分に納得できる形で現実的に解釈できる」という命題を、私は信じることにしました。犯人は魔女ではなく、魔女がいたとしても事件とは関係ないところだろう、魔法で人を殺したりはしないだろうというのが譲れない線でした。

 さて、ところが第1話の時点で、どう見ても出てくるんですよね。"魔女"が。主人公たちの前に杖持って現れます。黄金の蝶も出てきます。変装だったとか、幻覚だったとか、魔法なしでも説明はつきます。でも、かなり苦しい説明ですし、納得はできません。

  • 魔法は存在せず、現実的に解釈できる
  • しかしどう見ても魔女っぽい人がこれ見よがしに登場してる

 で、困りました。普通ならこの時点でアウトだと思います。ただ竜騎士さんの作品にはもうひとつの前提があって、それは平行世界的・多層世界的解釈を成立させるような世界構造が存在するはずだということです。この話は事前にインタビューなどでも聞いてましたし、そもそもひぐらしだってそういうお話でした。こっち方面に話が伸びるなら私はむしろ大歓迎だったので、なんとか矛盾のない解釈ができないものかと考えました。と、そういう感じで第1話プレイの数日後に書いたのが次の記事です。

 まあ第3話までプレイ済みの人が見たらそのまんまなわけですけど。こんなのはテクニカルタームとしての「推理」なんてものではなく推測とか考察のレベルで、一意的な結論でもなんでもなし、想像を膨らませれば何とでも言える話であります。「真里亜ちゃんの書いた小説でした」とかの仮説に対して明確な有意性を主張できるとも思いません。

 ただ、この説に至るまでの筋道はありました。なんでも「説明がつけばいい」というわけではないのです。説明するだけなら幻覚説で十分ですが、お話として面白くありません。どう説明すれば作品として面白くなるか竜騎士さんと同じ「創作者」の視点を持とうとすることが、私の依って立つ根拠でした。「この物語は読者を楽しませるために作られている」という大前提を見過ごしてはいけないのです。

 作中、信じることで魔女ははじめて存在できるという意味のことが繰り返し語られます。これが、重大なヒントなのではないかと思いました。言い換えれば、信じられるまでは魔女は存在しない、というイメージも成り立ちます。魔女が殺したか人が殺したかは観測できていない、ただし死体はそこにある。これがシュレーディンガーの猫という発想に繋がりました。

 これだけではただの思いつきで、他の数多の仮説と大差ありません。ただし、この説を補強する根拠がありました。この構造は、物語を作る人間の側から見て単純に「とても面白そう」だと思ったのです。

 作品世界を現実的に論理的に構成するなら、ファンタジーとしての楽しさは排除せざるをえません。逆にファンタジーを描こうとすると、ミステリーとしての面白さがどんどん揺らいできます。これは作者として第一のジレンマで、ここを曖昧にしたことがひぐらしの最大の失敗だったのだろうとも思います。

 でも、シュレーディンガーの猫の発想でお話を描けば、作中に両方の要素を込めることができます。その上、定めたルールの範囲内では決して矛盾が生じません。「ファンタジー世界とミステリー世界は互いに独立しており、ミステリー世界で超常現象は起こりえない」というルールの枠を保証すれば、少なくともその枠の中では他の推理作品と同程度に不確定性を排除できます。

 というわけで、細部に微妙なところがありながらも、第1話で「シュレーディンガーの猫箱」の原理に辿り着くことができました。もちろんこの時点ではわりと半信半疑。思いつきのひとつとして、当たったらめっけもんくらいに思ってました。でも第2話までプレイすると、この考えはほぼ確信的なものになります。これは世界観闘争なのだ、と。

 なんとか別の説明がこじつけられた第1話と違って第2話ではもう言い訳のしようもなく色んなことが起きていて、いまさらただの幻覚でしたではあまりにも筋が悪すぎます。で、そんなブォンブォンカキンカキした魔法バトルを目の前にしているのに、戦人さんとベアト様は平然とAxiomっぽい推理合戦をやってるわけです。

 なにより、今後まともに考察を続けるなら魔法バトルなんて否定するしかありません。こうなった以上、平行世界的な発想が持ち出されてくるのは当然の帰結だったと思います。魔法バトルは幻覚で……という説明をしていた人もいましたけど、第2話の時点で考察しようとする人は、前提として近いところに辿り着いていたと思います。そうでなければ、「やっぱりトンデモだったね」と結論して背を向けるしかなかったでしょう。

 勿論これも、結果的に当たってたから良かったねと言える話ではあります。この結論を見ていややっぱり平行世界なんてトンデモやんって言われたら反論できませんし、結局これは個人的に納得がいったという感想に過ぎないものかもしれません。ただなんにせよ、まず信じるという前提から論を組み立てることで解答まで導かれたというこの経験はうみねこのテーマにも沿っていて、面白いものだったなと思います。

 この対談では、作者と読者の信頼関係について語られています。作者を信じなければ地の文を鵜呑みにして魔法バトルを受け入れる、作者を信じるなら地の文まで疑ってかかる。となんか妙に逆説的になってしまうのですが、そういうところも含めて興味深い話だと思います。

 信じれば奇跡が起こる、というのがひぐらしのテーマでしたが、うみねこでは「ベアトリーチェを信じない」という逆の態度を推奨させる物語です。でも志方あきこさんのテーマソングでは「愛がなければ視えない」と歌われていて、これもやはり逆説的です。世界の構造について語るにしても話はやっぱり「誰を/信じるか/疑うか」というところに及んできて、テーマと構造がますます密接に関与してそうな予感があります。

 もちろんこれは実はとてもずるい話で、「作者を信じろ」と主張してそれに作者が報いている間はいいですけれど、実質作者の側はいつでも相手を裏切れます。ひぐらしなんかはまさに途中で「裏切られた」話とも言えますし、読者の側がいくら真剣に考えても作者側に「トンデモでしたー」とやられちゃったらその努力は一瞬で水泡に帰すわけで、基本的に作者側が一方的に有利なのです。この辺りの問題までカバーするつもりが竜騎士さんにあるのなら、うみねこはたいそう面白い作品になるだろうなあと思います。