『ネコソギラジカル(上) 十三階段』西尾維新

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)
あー、なるほど。たしかに死んじゃいそうですね!
底辺にある流れは相変わらずヒネくれてますけど、展開自体はありえないくらいに王道的。先への期待をあまりにも過剰に煽り立て、序章としてはこの上なくその役割を果たしています。稀に見る大傑作が生まれそうな予感と、勢いのままあらぬ方向にトんでっちゃいそうな不安がないまぜに。まあトんだところで傑作なのは変わりなさそうですし、そもそも傑作は大抵トんでるものだという話もありますけど、この作品は地に足をつけたまま傑作になれそうな雰囲気があるのでぜひこのまま王道を行って欲しいものです。『ヒトクイマジカル』の第八章『執着癖』後半のアレで作品(というか主人公)のひとつの方向性が示されたわけですけど、それがお話の最後まで貫かれるのか、結局それすらも皮肉をこめた茶番のひとつで終わってしまうのかが一番の関心所。
西尾さんのキャラクターは記号的でそれゆえに空っぽだという主張は本当によく目にするんですけど、どうにも実感が湧きません。たしかに、「天才」「最強」「メイド」「美少女」といった属性には事欠きませんし、その言動だって極端にデフォルメされています。でも、このキャラクターたちに魅力があるとすれば、それが記号的な設定のためだけとはどうしても思えません。たとえば崩子ちゃんなんかは普通に可愛らしい女の子としても描写されていて、いくつかの記号的な属性や言動を取り除いたところであんまり変わりはなさそうです。ひかりさんにしたって彼女がメイド業に就いてなくて普通の服装を着ていたところで、その辺に住んでいそうな感じのいいお姉さんとして十分に魅力的です。哀川潤さんの規格外な魅力も、「哀川潤は《人類最強》だ」と地の文で記号的に定義してあるからというわけでは全然なくて、読者がそれを納得できるだけのエピソードが作中で何度も繰り返し描写されているからこそです。西尾さんは記号に頼らずキャラクターを描写したり、または記号自体をそれが実感できるようにちゃんと描写できる人だと思うんですけど、これは私が記号と実体の区別をつけられてないだけなんでしょうか。
竹さんの絵のタッチはたしかに変わりすぎなくらいに変わってますね。表紙の色使いが妙にきらびやか。いのえもんさんの顔から何となく妖怪人間ベロ(人間の子供形態)を連想しました。