『円環少女(6) 太陽のくだけるとき』

円環少女(サークリットガール)〈6〉太陽がくだけるとき (角川スニーカー文庫)

1

 400ページ読むのに8時間かかったライトノベル*1

 初期は読みにくい読みにくい言われてた文体もかなり改善されて、「悪文ゆえに読解が阻害される」ということはほとんどなくなりました。文章密度も、ちょっと濃ゆめではありますがライトノベルの常識範囲。じゃあどうして読み進めるのに普通の倍もの時間がかかるのかというと、一文一文を自分の頭の中で咀嚼するのに要する時間、飛ばし読みを許さない文体の重みがあるということになるのでしょう。

2

 学生闘争や核テロといった問題を思いっきり真正面から描いた上で、その動機をあくまで「世界構築のために避けて通れないから」とするのが面白いです。なにか強い政治的主張があるわけでなく、"この世界が現実と地続きであること"を示すためにそこまでやるという姿勢。

 これは「子供たちを武器として使い捨てていかなければ成り立たない社会」という一巻からのテーマとも、しっかり重ねられています。元々いかんともしがたい問いかけを持った作品でしたけど、この『東京地下戦争編』で、その重みがちょっと尋常でないところまで降りてきたと思います。

3

 差別問題でも児童従軍問題でも、単純に「こういう問題がありますよー」と提示するだけだったら、別に難しいことではないでしょう。ただ、本作が凄いのは、その問いへの"掘り下げ"が徹底していることです。"女の子を死地に立たせ盾にする"という致命的な選択を最初の時点でしておきながら、その彼女に「守ってやる」と声をかける偽善。その偽善とどう向き合うべきなのか? という無茶な問いかけに対して、この作品は本気で答えようとしているのです。

4

 絶体絶命の死地を"運よく"何度も生き残る、というくらいの"ファンタジー"は、最低限の物語補正として存在します。でも逆を言えば、本作がテーマに関わる現実に対して妥協しているポイントは、それくらいしか見あたりません。たとえば本作では、「目の前の強大な敵をやっつけることで、なぜか物語のテーマまで解決してしまえたように印象づける」ような物語操作がほとんど行われていません。これは、物語という媒体によってテーマを語る最大の利点(あるいは欺瞞)を放棄しているとも言えます。

 加えて前巻からは、"同じ問いの繰り返し"がより強調されるようになってきました。既に正しい答を出したはずの問い、「物語的に解決したはずの問い」が、より致命的なシーンにおいて再び繰り返される展開。そうやって何度も切り口を変えて問題を問い直し、僅かな妥協が見過ごしてきたポイントをひとつひとつ潰していくことが、本作の"掘り下げ"の方法なのでしょう。

*1:参考に、『秋期限定栗きんとん事件』は上下巻500ページ合わせて4時間くらい。