成長物語くそくらえ - 石川博品『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』
読んでよかったー! 「ライトノベルって何ができるの? 既存のジャンルを縮小再生産して萌えを振りかけた寄せ集めじゃないの?」って聞かれたら、今度からこの小説を突き出してやります! ひと昔も前、他のジャンルも読めるのにあえてライトノベルを読んでいたような時、私はきっとこういう作品を求めていたんだろうなと思います、ほんと。
最近は年に数冊しかライトノベルを読まなくなったので、私が本作に出逢えたのは幸運な巡り合わせだったと思います。購入のきっかけになった紹介を書いてくれた人にはお礼を言いたいくらいなのですが、肝心な記事の在処が忘却の彼方なのが残念です。あ、あと物忘れのひどい私が積読状態の本作のことを思い出して実際読むまでこぎ着けたのは、だいたいid:srpgloveさんの不定期なネルリ推しのおかげでだと思うので、こちらもお礼を言っておきます。どうもありがとうございました。
内容あらすじ。ソヴィエト共産圏を模したっぽい架空の世界、現代人と大差ない*1価値観を有する「本地」人と、分離独立した辺境の諸「王国」*2人とが、学園のいちクラス(一年十一組)にまとまってあれやこれやするお話。ネタでは済まない倫理的軋轢があることを示唆しつつも、そこに積極的にコミットして相互理解を深めよう! と政治的に正しい展開に向かうつもりはあまりないようで、どちらかというと「お前の文化はよく知らんけどお前のことはフツーに友達」的な受け入れ方をしているのが素敵です。あと全編にわたって繰り広げられる主人公レイチの変態饒舌妄想一人称文体が楽しくて楽しくて、ワンセンテンス取り出して眺めるだけでも気持ち良いくらい。突っ込んだ内容紹介としては
あたりに良いレビューがあるので、私はだらだらと感想書きます。
語り
いわゆる妄想一人称文体のライトノベルは数あるのだと思いますが、本作の文体にはちょっと異質なものを感じます。主人公・レイチの一人称は地の文の描写と妄想的独白の境目がなく、連続的に滑らかに遷移します。この書き方が、抜群にうまいんですね。誰が何した、あれがこうしたと現象の説明を読んでいるつもりだったのに、いつのまにか変態妄想に文章がスライドしている、重力差に酔うような酩酊感。私の知ってるところだと、こういう感覚を味わえるのは他に古野まほろさんの『探偵小説』シリーズくらいです。両方まとめて、本棚のいちばん目立つところ置いておきたいですね。
あと古文系の語学ネタがところどころ挿入される程度ですが、そのたびドツボにはまって大笑いしていました。ケータイ小説『Deep Love』の古文版が登場してもっかい現代語訳し直すくだりあたりがネタとしてのピークですけれど、普段いかにもラノベラノベした喋りのキャラがいきなり畏まった尊敬語で喚き出す瞬間の落差なんかもなんだか気持ちよいものです。この類の快感は、たぶん本作の文章全体に通底しています。下手に手を出すとわけが分からなくなるだけの妄想文体も、こういう語学的教養の上に成り立っているせいなのかなんなのか、破綻しそうで破綻しない絶妙のラインを維持していたと思います。すごい。
内面を糊塗する一人称
本作が面白いのは、倫理規範や主人公の成長をあえて隠蔽しようとするところだと思うのですが、それを言うためにはちょっと前振りが必要なので、もう少し文体の話をします。
一人称文体は基本的に語り手の内面を綴るものですが、それが本心そのままとは限りません。叙述トリックなんて大げさな例を持ち出すまでもなく、一人称は時に語り手の本心と乖離して、内面を隠蔽します。別にそれが明確な嘘である必要もなく、心の表層的な思いをなんとなく書き連ねていくだけで、より深い内面から目を逸らすことはできるわけです。饒舌系の文体の場合、脱線しまくる与太話で煙幕を張って本心を糊塗する、なんてケースがよくあるかと思います。(代表的なところで戯言シリーズとか?)
本作のレイチも、地の文(と表層的な発言)を真に受けた場合と行動のみを見た場合とで、かなり印象が違ってきます。クラス内の軋轢にしろ、活動委員会での厄介事にしろ、地の文のレイチは状況を徹底的に茶化しまくっているだけで、時に頭をかかえることはあっても具体的な対策を理詰めで考えたりはしません。ところが現実の行動だけを見ると、レイチがそこそこ的確な手を打ったおかげで事態が改善した、という場面が少なからずが見られます。ただし「どうしてそういう手を打ったのか」、その思考が地の文からはあまり読み取れないため、一見すると地の文の妄想の延長でハメを外し、状況を引っ掻き回しているだけのように見えるわけです。(あと、スケベ変態男子サイテーな妄想をまくし立てるレイチの地の文ですがは、これってTwitterとかによくいる「自称変態ロリコン」的な振る舞いによく似てますよね*3 *4。)
こんな風に語りと内面を乖離させる一人称文体は、一種定番のスタイルだと思うのですが、本作ほど徹底している作品も珍しいと思います。いくら軽薄文体の主人公といっても、物語が佳境に近づけばそこそこ真剣な内面を見せるようになるのが普通です。最初軽薄だった文体が徐々に浮き彫りになる内面と一致する瞬間にこそ、この手の作品のカタルシスがあるわけですし。ところがレイチはこの定番のパターンに流れず、終盤に至っても一向にはっきりした内面を見せません。
印象的だったのは、P238あたりでバッヂを投げ捨てるくだり。この時、レイチの現実の言動はどう見てもマジギレ*5した人間の振る舞いなのですが、地の文では相変わらずおちゃらけを並べ続けていて、言動と地の文の乖離が際立つ奇妙なシーンになっています。その後もお話は続き、最終的にレイチの立てた計画が事態を収束させるわけですが、立案段階のレイチの内面については一切語られることがありません。計画の目的や全貌、そこに秘められたレイチの思いなどは軽くすっ飛ばされ、いきなり計画の第一段階を実行するシーンに移行するのです。主人公の内面を描かず行動だけを描いていくという点で、レイチの語りは一種のハードボイルド*6と言えないこともありません。
物語成長くそ食らえ
と、長々と前振りしましたが、本旨はここからです。本作には「妄想文体のせいで一見ふざけた作品に見えるが、実はよくできた成長物語である」的な評価があるようです。たしかに、仲間たちと心を通わせ、生徒会っぽい権力組織に対抗して一致団結もの申し、ちょっとだけ組織の悪習を改善させる……という展開は、典型的な成長物語に見えます。フォーマットとしては、たしかにそうです。私自身も、読了直後の印象は似たようなものでした。
ただし上で書いたように、主人公レイチの内面は基本的に伏せられています。読者の予断なしに、「成長するレイチの内面」を観察することはできません。本作を「よくできた成長物語」とみなすことができるのは、あらかじめ頭の中に用意した「成長物語のフォーマット」に当てはまるからであって、本作が「成長」そのものを直接的に描いているとは必ずしも言えないわけです。
もし本作が本当にハードボイルドのような簡潔質素な文体で書かれていたら、たとえ直接的な内面描写がなくとも、観察できる端的な事実から自然と成長を読み取ることができたかもしれません。でも実際のレイチの内面は妄想文体で徹底的に掻き回されていて、隠蔽どころか積極的に撹乱すらされています。単に描かないだけでなく、積極的に曲解させようとまでしているのです。
本作を成長物語として読むのが無理筋ということはないと思いますが、その読みを拒否する余地がしっかりと担保されている、という点には留意したいところです。もし仮にレイチが作中の出来事を通じて本当に「成長」していたとしても、文体に大量のノイズをばら撒くことで規範的な読解を煙に巻き、「よくできた成長物語」になることを拒絶しようとしている、私には本作がそんな風に見えます。それにレイチの性格からしても、自分の行動をお行儀の良い倫理的な物語に回収して、成功体験を規範化して内面化するなんてくそ食らえだと思うのです。
あたりまえの友人関係
ちょっと話は変わって、作品世界の文化背景のこと。表面上、一年十一組のクラスメイトは(変人揃いとはいえ)本地人である主人公レイチとまともに言葉を交わし、そこそこ仲良く喧嘩したりのんびりディスコミュったりしています。文化の違いも、そのすれ違い自体がひとつのネタという感じで、基本的には笑いどころです。とはいえ、とても笑い飛ばせないような深刻な倫理的文化的軋轢についても、さらっとですが明確に記述されています。教国の子たちが人権意識の欠落した自国環境について無邪気に語るくだりはギョッとしましたし、ヒロインのネルリからしてお国に帰れば冷厳な独裁者だといいます。この手の倫理軋轢がお話の俎上にまともに上がってくることは*7あまりなく、うっかり相手の人権意識を垣間見てドン引きするも別の騒動でうやむやーというパターンがほとんどです。けれど、事実としてそこに問題が存在するのだ、という明確に記されたことによって、本作の人間関係には常に見えない緊張感が漂っている気がしました。
一年十一組の生徒たちの関係はけっこう表面的で、「同じ釜の飯を食った仲」ではあっても「目的と価値観を共有する同胞」ではありません。ちょっとしたタイミングの良さに助けられて、「同じクラスだから」というまったく特殊性のない理由で、当たり前のように友人関係を結んだ*8だけのように見えます。その友人関係が担保されているのは、様々な利害関係をひとまず保留できる*9「学校」がこのお話の舞台となっているからであり、ひとたび学外に出るとどうなるか分かったもんじゃありません。外では普通に紛争とかやってそうですし、利害関係や文化的価値観の対立する子たちもいるでしょう。そして、そういった「外での対立関係」を積極的に解消しようという試みも、作中では見られません。せいぜいが、表出しているぎくしゃくした人間関係を改善しようと頑張る程度です。
こう並べ立てると、一年十一組の生徒たちの関係は、ずいぶんよそよそしいものに見えます。「仲間を信じろ! 自分の身を挺して仲間を守れ! それができなきゃ真の仲間じゃない!」みたいな価値観からすると、一年十一組の面々は「真の仲間」にはほど遠いのでしょう。ところが私には、そのゆるい友人関係がどこか尊いものに見えて仕方ありませんでした。彼らの仲をとりもつのが強固な友情なんかではなく、薄皮一枚の危うい均衡の上に成り立った一時的な巡り合わせだからこそ、逆にそう感じたのかもしれません。
最初に書いたとおり、本作には「お前の文化はよく知らんけどお前のことはフツーに友達」という雰囲気が漂っていて、それを決して悪い状態とはみなしていません。多文化交流というテーマを扱っていながら、「お互いの文化を理解して初めて真の友達になれるのだ」みたいなお利口な規範が微塵も出てこないことに、私はちょっとした清々しさを感じました。このあたりは、前段の「お行儀のいい成長物語」であることを嫌う話とも通底する感覚です。
規範から距離をとる
本作で私が最も心地よく感じたのは、物語を通して現れてくる規範をなるべく内面化しないよう距離をとる、レイチの意外と繊細な態度でした。物語って、普通に書くだけでも結構いろんな規範が入り込むもので、クライマックスで描かれる「成功体験」のメカニズムなんてその最たるものです。仲間を信じたから勝てたのだ、とか、相互理解を深めたから問題が解決できたのだ、とか、ドラッカーの教えに従ったから甲子園に行けたのだ、とか。
規範を提示するためにこそ描かれる物語もありますし、そういう「主題」のない物語はジャンクだ、みたいな物言いもあります。でも無闇やたらと濫発される安易な規範は鬱陶しいだけですし、下手なお説教は作品自体の価値も下げます。物語一般が持つつそういう側面に対する苛立ちを、本作はよく掬い取ってくれていて、たぶん私はそこが気持ちよかったのだろうな、と思います。
と、あまりにも面白かったのでハッスルしていっぱい書いちゃいましたが、よく考えたらこれは全3作のうちの1作目でしかないのでした。実際のところ、話が進むにつれて一年十一組の面々は親睦を深め互いを理解し、1巻より突っ込んだ関係になっていくのでしょう。直接的にはあまり描かれないとはいえ、レイチにだって思いも倫理もあるわけですから、みんなで団結して目的達成、大団円でめでたしめでたしみたいな展開にもなるはずです。ただしそれは、各人が思いに沿って行動した結果の成り行きとしてそうなるのであって、物語の定めた「そうあるべき規範」を遂行しているわけではない、なかったらいいなあと思います。
*1:あいえ、共産社会的なごにょごにょしたところはありますけれど。
*3:なんて指摘するとレイチは黒歴史ノートを発掘されたみたいな真っ赤な顔して猛烈に否定しそうですが。
*4:この件に関してid:srpgloveの人に話を振ったところ、https://twitter.com/#!/srpglove/status/192252443034263552 https://twitter.com/#!/srpglove/status/192256450033225730 こういうお返事をいただいてたいへん納得した次第。「俺が変態だ」「お前は変態ではない」「俺は変態になれない……」「俺は変態になる!」「お前も変態だ!」「俺が、俺たちが変態だ!」
*5:減らず口自体は相変わらずですが。
*6:私がネルリの感想を友達に述べた際、それってハードボイルドみたいね、という言葉が返ってきてなるほどと思ったので拝借しました。
*7:1巻時点では
*8:ところで、当たり前のように築かれる友人関係というと、『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー パンドラ』で、なぜユージンが組織を裏切るほどの友情を仲間たちと育むに至ったのかについて、特別な理由が一切説明されなかったことを思い出します。こういうのは、野暮ったい理由を説明しないこと自体がその友情の「当たり前さ」の表現になっているんだろうなと思います。すごい好きです。
*9:委員会等の色々ややこしい要素が邪魔しにくるにしても、それにしてもひとまずは。