『博士の愛した数式』が「数学」に向ける視線

博士の愛した数式 (新潮文庫)

記憶障害の数学者と、その家で働く家政婦、そして10歳になる彼女の息子が数学や野球を通じて交流するお話。

と、概要としてはそれだけの内容。お話の展開に特別なところは何もなく、だからこそ一文一文の「表現」そのものが引き立ちます。

たとえばオイラーの等式

e^{\pi i}+1 = 0

このシンプルな公式を、小川さんは次のように描いています。

果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙から\pieの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。全てが0に抱き留められる。

これ。もう思わず宇宙ヤバイ超ヤバイとか言い出したくなりました。抽象的な概念でしかなく、目にも見えないはずのその光景が脳裏に浮かびそうになります。

この手の表現にときどき疑問を感じることもあります。たしかに数学をやっていてこの手の感動を得ることはあるでしょうけれど、決して数学の面白さの全てがこの種のイメージによる感動だけで表されるものというわけでもないのです。

数学をロマンチックな空想で語ることは、必ずしも全ての科学者に共感されることではありません。「あらゆる人工的な連想を排した上で、なおかつ厳然と存在する宇宙の法則にこそ美しさを感じる」という嗜好が科学者にはやはり存在して、それは小川さんの人工的とも言える表現とは正反対だとすら言えるでしょう。

オイラーの等式にしても、数学上もっとも基礎的でもっとも重要なこの三つの特殊な定数が組み合わさって-1なる数を生み出すということ自体、驚嘆に値する事実です。その驚くべき法則を、わざわざ人間の勝手に作った言葉やイメージに当てはめて装飾するなんて野暮もいいところ、と考える向きがあるんじゃないかなと思います。

ですけれど、上に挙げた小川さんの文章もやっぱり綺麗な表現です。それはもしかしたら、純粋に数学的な姿勢とは言えないかもしれません。けれど、本来なら数学を理解している人にしか得ることのできない感動を、私たちにも伝えるための橋渡しをしていることも確かです。

それに、表層は文学的な表現ではありますけれど、その根底に数学的な感動がないとは言えないでしょう。真賀田四季さんだって「7は孤独な数字」とか言ってますし。両者の感動の質的な違いを混同してしまうのは避けたいところですけれど、こういった表現もなかなかよいものだと思います。

ところで上で真賀田四季さんの例を挙げましたけれど、この作品の「博士」の数学への愛の示し方は、概ねで森博嗣さんの作品に登場するそれと同じ方向を向いています。何でもない数に意味を見出したり、素数を偏愛したりというところ。実際、この博士が森さんの作品に登場しても不思議ではないくらいの造型です。

唯一の差は、この博士が数学と同じくらいに「子供」を愛していること。この点に関してだけは、子供に対して妙に残酷な視点を持つ森さんの作風とは相成れないところでしょう。両作者のこの差は、あくまでも純文学畑に属する小川さんとバリバリ理系である森さんの違い……とかでは全然なくて、まあ単に性格の違いでしょう。