パラレルな作家と読者

ライトノベルの定義論争を読むと、なんとも微妙なモヤモヤした気分になります。近いものをあげると、東浩紀氏の評論を読んだ時に感じる気分。「どんな風に考えるのも個人の自由ですけど、俺らや作家はそんなこと考えて物作ってませんぜ」みたいな。

 ぎゃああカッコいい!!! もうあまりにもきゅんきゅん☆しちゃったので今日の更新はこれ一本です。これ一本ですーと言いつつだらだらと書き足してる内にけっこうな長さに。しかも脱線まとまらず。なんか一般的なカテゴライズの話ともっとややこしい限定的曲解の話がごっちゃになっちゃったので精度ズタボロ。恥ずかしいので隠します。あー、話の元になった定義論争は議論アンパンに陥りそうなのでスルースルーしてますよ。ていうかライトノベルの話ひとこともしてな(ピチューン


「面白い学園伝奇異能が書きたい」「面白い脱セカイ系が書きたい」「面白い寝取られが書きたい」「面白いゲーム的リアリズムが書きたい」「面白い決断主義が書きたい」とか考えながら小説を書いてる人はいるでしょう。ミステリーとかSFとかになってくると作家自身がカテゴリを意識している場合がほとんどになってきますし、ジャンル意識を逆手にとって仕掛けを施してくる作品だってあります。

 でも、逆に「そういったカテゴライズ」を意識していない、または拘らない作家だって相当に数いるはずです。別に、だからこちらも作家の読み方に合わせろ、なんて妄言を主張するつもりは毛頭ありません。カテゴライズは単純に「便利」ですし、作家の意図しない読みが作品に更なる魅力を与える例というのはままあります。

 ただし、目の前の作品が必ずしも自分の想定する以外の視点で書かれている可能性を意識しておくことは、読みの幅を広げる意味でも決して悪いことではないはずです。少なくとも、自分の想定する読みだけを自明のものとして疑いもしないのは、単純消費以上のものとして作品と向き合うのなら避けておきたい姿勢です。

 いえ、本当にありうるんですよ。ジャンルでもナントカ主義でも、ひとつの読み方に拘るあまりいつの間にか「作者も自分と同じ価値基準を持っているはずだ」「作者は自分と同じ価値基準によって作品を書くべきだ」みたいな思考に陥ってしまう悪魔のパターンが。読者の方で解釈するだけならいくらでも好きにやればいいんですけれど、それがいつの間にやら作家側の義務や指針であるかのように語られてしまう。みたいな。

 たとえば「このシーンに登場したこれこれの構造は何々の象徴であり〜」みたいな感じで、とある作品を何たらという思想と照らし合わせて解釈するみたいな批評文があったとします。それは別にいいんですけれど、そこから更に「つまり作者はこのような意図の下に〜」という論調で話が進んでいったらどうでしょう。挙句、「この構造を全うするためにはこれこれこのような装飾を施す必要があったはずで、そこが中途半端に終わっている作者の仕事は片手落ちであろう」みたいな評価が行われたとすれば。

 作品だけを解釈していればいいものを、いつの間にか想像上の作者まで俎上に載せられて、おまけに模範まで当てられて……とまでなってしまうと、作者としてもさすがに寝耳の水で微妙な気分にもなろうというものです。もちろんこんなあからさまに曲解しまくる批評はそうそうないでしょうけど、なんか巷でじわじわと、どこぞの影響力のある***沢村の人の発言も相まって、とかやってるうちにアレ気な空気感が醸成されて……ええっと何の話でしたっけ(イヤボーン)(悪いのはアルセスです)