『眠る秘訣』という良書

眠る秘訣 (朝日新書)

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 良書です。

 それが人間の三大欲求のひとつであり、生き方の効率に多大な影響を与える要素であるだけに、睡眠に関する書籍はたくさんあります。その分、うさんくさいのも多いわけで……。典型的なのは、特定の個人特性を持つ人にはよく効く(でもその他の人には効くとも限らない)方法を、皆そうすべきであるという論調で語るハウツー本とか。

 そういった誤解を正しつつ、たしかな科学的知見から「眠りについてよく知る」ことを目的としたのが本書。なにせ睡眠学会の重鎮の手によるものですから、成功したビジネスマンが個人的体験を根拠に快眠ノウハウを語るようなものとは、科学的な信頼度が違います。

 冒頭から「睡眠とは何か」という突っ込んだ説明がはじまり、大脳と脳幹と睡眠の関係についての科学的・専門的な根本原理が示されます。この時点で既に、「眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠があって、深い休息になるのはノンレム睡眠だからノンレム睡眠をいっぱいとりましょう」レベルの説明で止まってしまう多くのハウツー本から一線を画すところに踏み込んでいます。

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 著者は、本書はハウツーものではないことを明確に宣言しています。睡眠には様々な個人特性があり、特に「*時間睡眠が快眠の秘訣*1」と一概に決めつけることの危険性を繰り返し述べています。

 また、「よりよい睡眠を追求しなければならない」というプレッシャーそれ自体が快眠を妨げていることにも触れ、そういうものは本末転倒な「睡眠グルメ」だと疑問視しています。「理想の睡眠」などないのだと、著者ははっきり言い切ります。

 そんなありもしない「理想の睡眠」の実現方法を探し求めるよりも、睡眠についての正確な知識を身につけて、個々人としてのつきあい方を考えた方がいい、というのが著者の主張です。最終的には、本人が睡眠に関して何も不満を感じていなければ、それがよい睡眠なのだと結論づけています。

 そうやって「自分で考えなさい」と言いつつも、睡眠薬の服用や睡眠障害への対処については、素人判断は危険なのでちゃんと専門医にかかるようにとも述べています。その辺り、完全に個人に丸投げしているわけではなく、ちゃんと「個人で判断できる領域」を示してくれています。隙のないご本です。

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 いわゆる「新しい知識」「目新しい話」みたいな雑学的な内容も折々に含まれていて、そういう好奇心も満足できます。脳の半分だけ眠って長距離移動する渡り鳥とか。特に睡眠に関して改善の必要を感じていない人でも、読み物として十分に刺激的でしょう。

 著者の井上昌次郎さんは、定年後も睡眠に関する深い見識により各所から声がかかるようなおじいさんだそうです。ご高齢でありながらも凝り固まったところが全然なく、優れたバランス感覚の持ち主であるように感じました。こういう人の書く文章は、それ自体がとても魅力的なものになるのでしょう。

*1:それが8時間睡眠であることもあれば、3時間睡眠であることもあります。