『国境の南 太陽の西』村上春樹

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
ぷりてんにゅあはぴーうぇにゃぶるうー。
村上春樹さんの初読みです。『世界の終わりの魔法使い』を読んだ時みたいに、わけがわからずストンと落ちてしまったらどうしようかと思ってましたけど、わりと楽しく読めました。面白いというよりも、興味深くて先を読み進めるという感じですね。ラスト付近の現実と非現実の境界がわからなくなっていくような眩惑感は、もうホラーと言ってしまってもいいと思います。小林泰三さんの『酔歩する男』に通じる眩惑感です。
それにしても意外だったのは、十代から二十代の主人公の心理状態がまさに駄目人間そのものだったことです。(ここで言う駄目人間とは、「周りの人と気が合わない」→「自分は劣っている」「いや孤高なのだ」という思考にはまっちゃった人のことで、就職できない人とかひきこもりの人とかのことではありません) つまり西尾維新さんの戯言シリーズの主人公や大槻ケンヂさんの世界観と、この作品の主人公のものの考え方がおそろしく似ているのです。さらに特徴的なのは、本当は「自分は劣っている」のだということに主人公がつゆほども気づいておらず、あくまでも「自分は孤高だ」と信じきったまま大人になってしまうことです。(西尾さんや大槻さんの場合は、まず「自分は劣っている」と心の底で認め、あるいは大っぴらに散々と卑下した上で、あらためて「それでもどこかは孤高なのだ」と主張します) ただし主人公が三十代になるとそういうオーラもなりを潜め、いわゆる「文学」という感じになってきますね。
あと気づいたのは、この作品に登場する女性が、女の子を消費物として配置しているタイプの美少女ゲーム(と私が勝手に認識しているもの)と非常に似た扱われ方をしていることですね。つまり、主人公が結局は他の女性を自分のコマとしてしか認識していないみたいな。それはもちろん人間扱いしていないということではないので、相手が悲しむようなことはしたくないし相手のために自分を犠牲にすることだってありえるけれど、対等の存在としては決して描かれません。この辺、エントリーを変えて改めて書いた方がいい気がしてきたので後日また……。