『火星の人類学者』

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

 脳神経科医の作者が、人の認識にまつわる様々な症例を描いたノンフィクション。

 色覚を失うことで「別の世界」が見えるようになり、新たな表現力を獲得した画家。視力を回復することで新しい世界に打ちのめされ、健康な生活を送れなくなった元盲人。などなど、病気と健康の単純な二項対立ではとても語り尽くせない七人の人物が登場し、作者は「友人」としての態度から彼らを描写します。

 私たちと異なる機能を有した脳を通して感じる世界は、おそらく私たちには想像もできないくらい多様です。"自分の認識している世界は決して普遍的なものではなく、脳の有している機能の範囲でたまたまそのように認識しているにすぎない"ということを、本書の症例は教えてくれます。

 特に印象に残ったのは、表題作である「火星の人類学者」で描かれたテンプル・グランディン女史。彼女は自閉症であるにも関わらず動物学の博士号を取得していて、事業家として活動してもいます。ただし彼女は、人間の高度な感情の機微を理解することができません。

 複雑な感情を持てない彼女は、人間よりもむしろ動物に共感を抱いています。けれど社会生活を営む上で、他人の感情を読み取ることは避けて通れません。そこで彼女のとった方法は、人がどのような状況においてどのように行動するかというパターンを、実感はできなくとも「計測的」に判断するというものでした。

 喜怒哀楽などの感情のシステムがまったく異なる異星人について調べる学者を想像してみれば、彼女の努力がどれだけ凄いことか分かると思います。まさにこの例を挙げて、彼女は自分のことを「火星の人類学者」と呼びました。

"自分は他人のような精神活動を営むことができない"ということについて苦悩する彼女は、私たちの想像するような類型的な「感情を持たない人間」とは全く異なる人格です。これはもしかしたら、未だどんなフィクション作品にも描かれてこなかった心理かもしれません。

 本書に記されているのは学術的な視点からの興味深い分析ですけれど、詩情とすら言えそうな私的な情感の描写がときどき不意に挿入されます。これが本当に美しくて、文章の表現力が云々と言うよりも、作者の症例患者たちに対する友情が滲み出ているという感じなのです。作者が「友人」として彼らに接しているんだということが、実によく理解できる部分でした。