「メモリ」と「メモリー」の表記を統一したくない - 文章表現の難儀なところについて
「メモリ」と「メモリー」はともにmemoryのカタカナ読みで、辞書的には表記揺れという以上の差異はありません。でも二つの表記を見比べて、全くなんの違いも感じないという人は少ないでしょう。
「メモリ」はコンピュータの分野とかでよく見られる表記で、これを見ていきなり「思い出」という意味を連想する人はあまりいないと思います。逆に「メモリー」という言い方にはやや情感的なイメージがあるはずです。両者を使い分けたいときというのがあって、「メモリーカード」は別に「メモリカード」でもいいんですけど、ラブソングの歌詞とかだと「恋のメモリ」よりはやっぱり「恋のメモリー」と書きたいものです。
年代とか文化層で認識の差はあるでしょうけど、こういう言葉のニュアンスの差、というものは歴然と存在します。そして、ある種の文章表現は、こういう表記揺れすら武器とします。
文章作法的な話で、ひとつの文書の中での表記は統一しなければならない、的なルールをよく聞きます。特に内容の一意性が重要となるビジネス文書や論文などでは、こういった配慮は不可欠なのでしょう。
ただ、似たような作法が小説など文章表現の分野で無批判にルール化されていたりするのを見ると、あれれ、と思うことがあります。
文章全体で表記に統一性を持たせ、作品全体に調和を与える。いいでしょう。文章表現の工夫のひとつとして、そういう技はあります。ただ、"表記揺れのニュアンスまで考慮する"のも同じく文章表現の工夫です。両者は共に選択することのできる「技」であり、校正とかで機械的に赤を入れればいい種のものではないと思うのです。
文章書きはじめの頃、作文教室とかなんとかで、「表記を統一しましょう」的なことを教えられるかもしれません。文章に慣れない頃は無意識にばらばらな表現をしてしまいがちなので、まず基礎として漢字は漢字、ひらがなはひらがなで書き方を意識するようにしましょうという話だったのだと思います。最初の最初の基礎として、表記を意識するのは重要でしょう。
でも、小説を書こうなんて考える人は、少なくとも作文教室の合格点の遥か上を目指しているはずです。そういう人は、最初に教えられた「表記を統一しましょう」というルールについて、一回くらい疑問を持っていいと思うのです。
「メモリ」と「メモリー」くらいなら、指し示す対象が明らかに区別されていれば大目に見てもらえるかもしれません。でも例えば私はこういう光景を想像します。どこぞの生粋のソフトウェア技術者が、親戚の機械音痴な娘さんにデジカメの操作を教えるような場面です。技術者は当然「メモリ」と言うはずです。そして娘さんの方は、たぶん「メモリー」と発音すると思うのです。こういうシーンで表記の違いをさりげなく書き分けられたらかっこいいなと思うんですけど、でもこういうのは校正者によって、赤を入れられかねない表現なのです。*1
もっとテクニカルなところでは、ひとつの文章の中で漢字とひらがなの割合を考慮して、最も情景に適した雰囲気を描き出すために表記をがんがん変えていくような方法もあります。同じ単語が近いところで漢字だったりひらがなだったりすると確かに読みにくいでしょうけど、ある程度はなれていれば滅多に気にはなりません。そういうバランスまで汲んで文章を綴っていくという、恐ろしく高度な技法ですけれど、偉大な作家たちの中にはそのくらいやってのけられる人はそれなりにいるのだろうと思います。
こういう小説作法の話は色々あって、たとえば擬音語を使ってはいけないとか、人称を統一しなさいとか、小説サイトとか入門書とかを見てみるとまあ色々書いてあります。これらの訓辞はごく初歩的なもので、たしかに最初の内はこういうことに気をつけないと文章が滅茶苦茶になりがちなのです。初めて書いた小説はセリフと擬音と必殺技を叫ぶ声だらけだったとか、たしかにリアルにイメージできるものではあります。う、うぎぎぎ。
これは、だから最初のうちは気をつけましょうー、という意味合いで受け取った方がいい話なのだと思います。ただ、駆け出しの頃に教えられた「ルール」が小説の「書き方」のみならず「読み方」にまで絶対的に君臨してしまうパターンというのもやっぱりあります。本人が偏屈になってるだけというのもあるでしょうけれど、もっと不幸なのは昔刷り込まれた小説作法に反する表現が出てきただけで"生理的に"気持ちが萎えてしまうとうい場合で、これはちょっと身に覚えがあったりします。
そういったところまで計算に入れはじめると、たとえば擬音語表現を使いたい場合でも、「これを読む人には擬音語表現に生理的忌避感を持つ人がこのくらいいるだろうから、今回はやめておこう」みたいなことまで考えなければならなくなります。そこまでではなくても、もっと一般的な話として「……」の表記は三点リーダ二つが正式だからそれ以上長かったり短かったりするのを見ると気持ち悪くなる、という人は結構いるんじゃないかなと思います。三点リーダのルールについてはほとんど業界レベルで統一されているらしく、「……の長さで沈黙の度合いを表現する」みたいな技はなかなか使えません。見ようによっては些細な話でもありますが、文章表現もいろいろ難儀なところがあるのよなあという話でした。