既存のパターンを繰り返す創作に意味はあるのか?

「物語のパターンは2つしなかい」みたいな言葉があります。そこまで極端でなくても、物語は昔から同じパターンを繰り返しているだけだ、みたいなことはよく言われることでしょう。それなのに、わざわざ新しくもない物語の創作を繰り返す意味はあるのか。あいつらが一体何をやりたいのか理解できない……みたいな発言を目にしたことすらあります。

 そりゃ、意味も価値もあるでしょう、と。こういう理由で作品の全否定にかかって来る人には、スポーツを例に挙げた反論が有効だと思っています。

 たとえば、野球。野球は表裏を九回繰り返すだけです。どのタイミングで点が入って、どのタイミングで逆転して……という風に過程を細分化したところで、ある試合と似たような流れで決着のついた試合は過去にいくつも存在するはずです。「パターン」に分類すれば、ほとんどの試合は過去と同じことを繰り返しているだけと言えるでしょう。

 では、過去に同じパターンの試合があったら、その試合の価値は減少するのか……というと、そんな風に考える人はまああんまいないんではないかなと思います。その試合がどういうパターンを辿るかよりも、今マウンドに誰が立っているのか、その彼らがどういう試合をしたのか、ということの方が多くの人にとっては重要であるはずです。パターンという外枠が過去と比較してどうであるかとは別軸の問題で、ひとつひとつの試合にはそれぞれ一回性の価値があります。

 同じような理由で、私は掲題のような作品に価値を感じます。その物語の中に新しく描かれた人格がどう行動し、どのようなことを思うのか。掲げられたテーマがどう解決されるのか。そういった、枠の中の次元でわき上がる「一回性」を見事に描ききった作品であれば、私は価値を感じますし、あるいは「パターンの新しさ」とは別の評価軸から「新しい感覚を味わえた」と評することすらあるでしょう。

 だから勿論、その一回性が感じられないような「しょうもない試合」「つまらな作品」というものも存在します。それは「外枠」のパターンとは別の問題、「内容物」の問題として語られるべきものです。

「外枠」と「内容物」の両方が優れた作品は、文句なく素晴らしいものでしょう。その片方だけを有する作品も、また刺激的であると思います。そういう作品については、「片方は持っているが片方は欠けている」と評することができます。でも個人な価値基準としては、それを「欠点」と呼ぶのは気が進みません。欠点は「あるべきものが欠けている」時に用いる言葉ですが、その両者を常に「あるべきもの」として捉えること自体に疑問を感じているからです。

 書いてて思いましたが、それを「欠点」と呼ぶべきかということに関しては、他の色々な問題に関しても似たようなことが言えるでしょう。

あとおまけで

 上記の話とはアプローチがぜんぜん変わりますが、いくらでも深く解釈できるものをわざわざ大雑把に分類して「**は二種類しかないから薄っぺらい」とかぬかす輩には、「うんそうだね、人間も男と女の二種類しかないから薄っぺらい生き物だね」とか返しておけばいいと思います。

さらに追記

 いきなり二元論から喋っていったところを、もっと細かく解体してもらえた。こういう細部はひとつの記事の中にはなかなかまとめ込めないので、こういう外野からの指摘はありがたいです。

 この文脈で「一回性」を用いた感覚を説明しようとしたらかなり難しいことに気づきました。「一人の人間である自分」と「ひとつの物語である作品」との組み合わせは一通りしかない、というあたりで、一期一会的な感覚の元にこの言葉を持ってきた、という表現で私の頭の中のニュアンスが伝わるかどうか。あるいは、作者はひとつの作品を一度きりしか生み出せない、的な意識も大きい。とか言ってみるものの、伝わらない表現は表現として下であり、上手い言い方ではなかったかも。自分の中ではいちばんしっくり来てて、かなり気に入ってはいるんですけどね−。