音楽的文体 - 古野まほろ『探偵小説のためのエチュード 水剋火』

探偵小説のためのエチュード 「水剋火」 (講談社ノベルス)

 陰陽師百鬼夜行もトラペドヘゾロンも象徴哲学も出てくるけど、やってることはガチガチの本格推理小説という恐るべき作品。同作者の天帝シリーズと比較すると、ページ数が半分以下ということもあって手加減してる感はありますが、手加減してコレというのは十分に驚異です。もし西尾維新さんが今みたいな方向に行かず直球で本格の方に進んでいたら、多分近しい作風として並び立っていたんじゃないかなあとか。

文体

 容赦ない四国弁で炸裂するガールズトークが、非常に楽しゅうございます。抵抗なくするする読めるし、文章に触れているだけで心地いいです。この文章を読みにくいと感じる向きも多数あるとは容易に想像できるのですが、そこには根本的な読み方の差があるんだろうなと思われます。

 まほろさんは情報というよりも思考の流れ、会話の流れをそのまま文章に起こすような書き方をしています。そこに論理的な整合性は当然なく、そういった文章は脈絡としてしか意味を追えないものなのです。ただしそれは現実の人間の思考・会話に限りなく近い在り方で、音楽的ですらあります。音楽を「ド」だの「シ」だのの情報としてのみ解釈する人はほとんどいないはず*1ですが、だから音楽は何も伝達しないということにはならないでしょう。

無駄のない過剰

 そして、そういうガールズトークだからこそ、伏線を隠すなら実はこれほどうってつけの場所もないのだと思います。伏線の難しさは、いかに"それが伏線であると悟られないように自然に"読者の意識に残らせておくか、という点にあります。ばればれな伏線は、当然好ましくありません。かといって、誰も気にかけないような文章の隅っこを指さして「ほらここに書いてるでしょ」とドヤ顔しても、それはそれで読者の納得度が下がります。いかに計算高いトリックでも、伏線を読者に伝え損ねてしまえば、解決編で「え?」という顔をされてしまいます。

 乙一さんなんかは、"読者にわずかな違和感を与えつつも意識の表面にまでは上らない"ような、さりげない伏線の張り方がとても巧みです。まほろさんの場合、これとは違う手法を使います。なにせどのシーンをとってもいちいち印象的なので、一体どこが話のポイントなのか読んでる時はさっぱり分からなくても、とりあえず頭の中には残るのです。まほろさんは説明ではなく脈絡で語る作家ですが、その脈絡の中にちゃんと情報を潜めてもいるわけです。実際、これだけ装飾過剰な作品でありながら、シーン自体が無駄という箇所ほとんどない*2のです。過剰ですが、無駄ではない。書くまでは練りに練り込むプロット型、書きはじめてからは筆ほとばしるライブ型、両方の作風が80%:80%くらいの恐ろしい割合で拮抗した作家さんなのかもしれません。

情動面

 切羽詰まった切実さを抱えつつ、お話の展開としてはわりとほんわかな方面に持って行きます……それが逆に怖いというか。一冊の中で信頼→裏切りのパターンをやらかしてくれれば、「ああ酷い話だったなあ」と苦笑して終わることができます。でも、一冊の完結した作品の中では物語がいい感じに終わっていたのに、続刊で"いい感じに完結したはずの物語"を再度ひっくり返してぶちまけるようなことをされたら、ダメージは比較にならないくらい大きくなると思うのです。物語最大の暴力です。

 終わったはずの過去の作品の「物語」を盛大にひっくり返すのは流水御大の得意技ですが、どうも感覚的に、まほろさんもそういう手合いなんじゃないかという予感があります。作品を見渡しても、次巻以降の展開を意識しているであろう描写は散見されますし、探偵役・小諸るいかさんの内面描写がほぼ一切ないのも気になりますしで、なんか大仕掛けやってそうな匂いはぷんぷんします。そういう不安で本心かなりびくびくしつつ、とりあえずこの一冊だけの印象としては、やっぱり「いい話だったなあ」と思うのでした。

*1:「音」を「音楽」として総合的に解釈できない神経症、などはあると思います。

*2:この点は、本格推理小説パートが200ページ程度の範囲にすっぽり収まっていた『天帝のはしたなき果実』と対称的です。